「私の従軍記」 子供たちへ

平成元年父の誕生日に贈ってくれた本、応召されて帰還するまでの4年間の従軍記を今感謝を込めてブログに載せてみたいと思います

馬の産地

2006-08-03 10:47:22 | Weblog
 ここでは周りが水田で、稲が作られていたが、苗代は短冊型の日本式で、これを見ると内地の鏡町のことが思い出されたものだが、長い柄の鍬(くわ)でチャンコール(耕す)され、水を張り、そこに水牛を5,6頭入れ、長い鞭でグルグル追い回して、ドロドロにし、その後に植え付けていた。
 収穫は一家総出で、稲の穂先だけを摘み取って、一ヶ所に集め、ドンゴロスみたいな敷物の上に広げて、鐘の音に合わせて足で踏んで落としていた。
 穂を摘み取った稲幹は次第に枯れていく訳だが、そこに馬の放牧が行われる。馬は群れを作って、あちこちの稲藁を食って移動していたが、発情期になると雄馬同士の戦いが始まる。
 走りながら相手のたてがみに食らいつく。また蹴る。そんな時には現地人は長い棒を持ち、顔色を変えて止めにはいる。聞くと「止めなきゃ死ぬまでやる」と言っていた。
 ここはラジャ(王)に捧げる馬の産地だったらしく、私達がいる間に、1回伝統の競馬が催された。馬は1m30cm位の小型だったが、気性は荒いようだった。藤森分隊長も出てみると言うので乗ったら、足が地面に届きそうだった。鞍は置かずに裸に乗るのでなかなか上手く走れず、馬が言うことを聞かず、ビリに近い成績だった。
 一度、交尾をしているところを見たが、凄い光景だった。両者意外は別にその事に気を止めるでもなく、そばでノンビリ草を食っていた。
 ある日、岡田分隊長が1m位の子馬のヒョロヒョロするのを連れて帰って来た。
 「どうしたんですか?」と聞くと、
 「そこで拾ったんだ。養って乗馬にするんだ。皆、手伝え」という。
 生まれて余り日も経っていなくて、衰弱している。母馬から捨てられたのか、群れからはぐれたのか分からないが、見た感じでは、病気に罹っているらしい。これをどうするつもりなのかと思って見ていた。
 岡田分隊長は馬を飼ったことは無く、兵隊にもその経験者はいなかったので、草を食わしたりなんかしていたが、2,3日したらもう立てなくなったので、
 「分隊長殿、これは駄目ですよ。現地人に呉れなさい」と言ってやったら
 「やっぱり駄目か。そうしよう」と諦めて、現地人に引き取ってもらった。