「私の従軍記」 子供たちへ

平成元年父の誕生日に贈ってくれた本、応召されて帰還するまでの4年間の従軍記を今感謝を込めてブログに載せてみたいと思います

ピーヤの廃止

2006-08-22 18:55:25 | Weblog
 ピーの衛生検査が定期的にあった。性病の検査だ。軍医とそれに若い将校が2人位ついて来た。1人1人部屋に呼び込んで検査をしていたが、
 「斉藤、一寸来い」と軍医が呼んだ。「何でありますか」と聞くと
 「入って来い。良いものを見せてやるから」「ハイッ」私は回れ右をして、そこから離れた。若い将校が笑っていた。
 その後で検査書を見たが、住所、氏名、生年月日、結婚の有無、病歴、それに下腹部の状況、どこにホクロがあるとか、どこが肥大しているとか、性病に罹った事の有無とかが詳細に書いてあった。
 ある時、1人の若い女がここを尋ねて来たので、矢野軍曹と私で応対した。
 「何をしに来たのか?」「仕事をしに来た」「ここは何をする所か知っているか?」「知っている」「どこから来たか?」少し離れたカンポン()から来たと言う。「どうしてここを知ったか?」
 「の人から、ここへ行けば綺麗なバジュ(着物)を沢山くれるし、お金も貰えるというのを聞いた」
 「家の父母には言ってきたか?」「言って来た」
 苦心惨憺の会話であった。矢野軍曹が
 「我々は長くはここに居ない。何時出て行くか分からないので、雇う訳にはいかない」と説明したが、なかなか立ち去ろうとはしないので、一寸した物を持たせて帰ってもらった。
 こんな事があってから1週間位した時、矢野軍曹の予言が的中した。南方軍総司令部からの命令で、ここを引き払う事になり、ピーヤは廃止になった。
 ピー達には持てるだけの布地を分けてやり、お金も都合のつくだけは与えてやった。ピー達はみんな別れを惜しんで、その夜、自分達の手作り料理で、お別れパーティを開いてくれた。
 夜遅くまで、歌ったり、踊ったりした。【サトチンチンブルマター】という踊りの歌詞だけは、まだ覚えている。それからお別れの時の踊りといって、悲しそうな唄に合わせて、女全員が踊り、涙を浮かべて名残を惜しんだ。
 つきあって見れば、良い女達ばかりであった。