「私の従軍記」 子供たちへ

平成元年父の誕生日に贈ってくれた本、応召されて帰還するまでの4年間の従軍記を今感謝を込めてブログに載せてみたいと思います

ピーヤ当番 2

2006-08-21 22:43:36 | Weblog
 ピーたちを見ると、1番奥の部屋の女は肌は白く、一寸日本の女を見るような美人で、中佐殿専用。次のも美人で故郷の近所辺りで見たような感じ、これは将校用。次はおっとり型。次はオキャンで勇み肌、博徒の姉御そっくり。次はいかにもカンポンの女といった実用型に分かれていた。
 ある時、非常呼集がかかった時、中佐殿のピーが
 「トアン(旦那様)」と呼びながら、褌をヒラヒラさせて後ろから追いかけて行ったと、本当か嘘かは知らぬがそんな話があった。
 ここの女達は、1度来た兵隊は自分のものと決めてしまい、他の女の所に行くと「マタカランジャー(助平)」といって軽蔑して、その次から応じなかった。妙なしきたりがあるものだと思った。
 先の当番兵は若しかしたら、中佐殿の分に手を出し、仲良くなったのかもしれない。
 兵隊の間では、ある時、ピーヤに行って、女と3回交わった男にピーが
 「もう1回どう?」といったら、
 「俺はそんなに助平じゃない」と言ったと話していた。東洋人のピーは終ると「もう1度抱く?」と聞くそうだが、白人の女は「終った。早く出て行け」と言ってパンティをはくそうだ。これも兵隊の話。
 ある時来た兵隊が、お金を落として行った。どう処分しようかとピーたちに相談して、結局ピサン(バナナ)を買って食べてしまった。
 ここで使う水は裏の川から浄水器を使ってろ過していた。素焼きの筒の中に、ポンプで押し込んでろ過された水をバケツに移すのだが、遅く行くと粘土みたいなので、目詰まりして分解掃除をしなければならなかった。
 ピーたちは1人済むと、洗濯場と洗面所を兼ねたような所で消毒していた。私があるとき、そこの前を何気なく通りかかったことがあったが、そのピーは
 「マタカランジャー」と私をからかった。
 矢野軍曹はよくピー達と話をしていたが、「斉藤、遊べよ。券をやるぞ」と言ったが、先にも書いたように1度でも触ると「私のチンター(恋人、旦那)」と決めてしまうしきたりがあるので、つい深淵にはまることになるし、私自身あんなことはしたくなかったので「要らんですよ」と断っていた。
 軍曹は大体時間を測っていて、そのピーの名前を言ってから、「ウェス」と呼んでいた。ピーも中から「ウェス」と答えてから兵隊を帰していた。
あるピーは本を読んでいた。珍しいこともあるものだと、一寸見たら、料理の本らしく、ホテイアオイの水面に浮く訳を図解してあった。
 「仕事は休みか?」と聞くと
 「仕事が終ったから休みだ」と言う。
 「お客は未だ居るじゃないか」
 「私は1日2人と決めている。無制限にやると身体に悪いから」と答えて又本を読み続けた。

ピーヤ当番 1

2006-08-20 10:37:31 | Weblog
 滞在が長くなり、ここでも慰安所ができた。各部隊、日割りが決められ、その日になると「行きたい者は券を貰いに来い」なんて通達があり、私達の中でも券を貰いに行く者もぼつぼついた。
 ここの責任者は矢野鏨一軍曹で、その下に兵隊が1名いて糧秣の受領その他の雑事をしていた。この兵隊とあるピーが仲良くなり、物資の横流しとか何とかやったらしく、勤務替えになったそうだ。そんな話を聞いた翌日、私は人事係りに呼ばれた。
 「斉藤、お前ピーヤ当番をやれ」
 「ピーヤですか、ピーヤ当番なんて嫌です」と断った。終戦前なら命令一下でやられていたんだが、現状は少し違っていた。
 「まあそう言わんでやってくれ」としきりに頼むので、
 「もし、ピーが言うことを聞かん時は、叩いても良いですか」
 「ああ良いとも、言うことを聞かんときには叩け」
 「それならやります」 叩いてよいと許可を貰ってから引き受けた。それから毎日弁当を持て当番に行った。
 私達の兵舎から500m位離れ、道からお国50m位入った所に、元オランダ人のゴム会社の社長宅があり、そこが司令官中佐殿の宿舎で、そこの入り口の元、バブ(下女)、ジョンゴス(下男)達の住んでいた一棟6室がピーヤになっていた。
 この屋敷は広く、大きな樹が繁っていて、猿達が時おり遊びに来ていた。腹のところにしっかりとしがみついた小猿を連れた母猿もいたが、ピー達は猿を見ると怖がるので、程よく追い払ってやった。
 ピーは現地人で5人。各々1室をあてがわれていた。真ん中の1室は責任者の部屋で、遊びに来た兵隊から券を受け取ったり、ピーの管理をしていた。私は室にはあまりおらず、専ら外回りを箒ではいたり、時には水を汲みに行ったりして、時間を潰していた。
 食事はピー達自身で当番を決めて作っていた。鶏を料理するのを見たが、羽根をむしって、火を一寸燃やして、毛を焼き、内臓を取り出すと、後はバラン(日本で言うならナタ)で大きく叩き切っていた。肉がとか骨がとか言う日本式とは違うなあと感心したものだ。

 

一斉検診

2006-08-19 18:20:55 | Weblog
 ここに、部隊が集結して2週間位してから、兵隊の一斉検診が行われた。各地に展開していたのが、集団生活するようになったからで、やはり、性病に罹っている者が数名いたということだ。
 私はその時、大谷軍医から
 「お前は肥えすぎて心臓が無理している。少し痩せるようにして、辛いものは食べてはいかん」と注意を受けた。
 タケゴンに居たときは75kg近くあって、拳を作ると子供の様に指の付け根が凹んでいた。現地人が「バビ(豚)」と陰口を言っていた。私は軍医からの注意を、今に至るまで守り、極力辛いもの、胡椒、からし、わさび類は食べないことにしている。
 又、この検診で数名の包皮が見つかり、内地に帰ってから結婚の時、困るだろうと手術が行われた。あの人がと思う人が包皮だった。
 男の性器がローソクのように溶けてしまうローソク病(俗称)には罹っている者はいなかった。

椰子の実

2006-08-18 19:18:35 | Weblog
 ここに居た時だったか、椰子の実をとろうと、木に登り始めた兵隊が途中で
 「痛い!」といって急いで下りて来た。「どうした」と聞くと
 「何か睾丸に食いついた」と言いながら半ズボンを下げ、褌から睾丸をつかみ出したのを見たら、長さ3cm位の黒褐色の蟻がしっかり皮に食いついていた。潰しておいてからその椰子の木を見ると大きいのがいる。それが上がったり下ったりしていた。そばで笑って見ていた現地の青年に
 「お前、とって来い」と言ったら、猿のように裸足で登り始めた。よく見ると椰子の木に足がかりの切れ込みが入れてあり、そこに足をかけて登る。両手両足だけが木に触れているだけだが、それを知らない我々はつい、木に抱きついて登る。それで椰子蟻に睾丸をやられる寸法である。
 椰子の実の汁は旨いとよく宣伝されているが、私達が実際飲んでみたが青臭さがあってあまり旨いものではない。だんだん熟してくると水が少なくなって、中の殻の内側に白い膜ができる。それも食ったが脂臭くて旨くない。更に熟れると白い膜だけになる。椰子畑では殻をパランで割って白い膜を剥がして天日に干していた。すると次第に黒くなってくる。これは油分が多くて椰子油を絞る原料だが、噛(かじ)ってみたが旨くなかった。
 背の高い椰子のほかに、名前は忘れたが、赤い実のなる葉の繁った木周りの大きい椰子が栽培されていて、現地人が使う油は大抵この実からとった油で、市場の臭気、料理の臭いはこれの為だった。又赤い実のまま蒸気機関車の石炭の代わりに使っているのも見た。

ゴムの実

2006-08-17 11:35:38 | Weblog
衛兵所の前の道を、20頭位の牛を連れて毎日往復している現地人がいた。先頭の牛の首には鈴がかけてありガラン、ゴロンと鳴らしてゆっくり通っていった。ある時、通行料を取ろうかなどと、冗談を言ったら、それからバナナなんかの心付けを持ってくるようになったそうだ。
 衛兵所に行く途中に、直径40cm位の大木ばかりのゴム園があった。ゴムの実が熟して硬い殻が破れるカーンという音がよく聞こえた。実は鶏の卵の半分位の黒褐色の美しいもので、中身は白く栗のようだった。私達は焼いたら美味しいだろうと思ったりしたが、軍医は
 「ゴムの実は有毒だから、決して食べてはいけない」と言っていた。
 兵舎から少し裏手に行くと、大きな濁った川が流れていた。現地人はそこでマンデーや洗濯をしていた。ある時、子供が口から泡を一杯出していた。聞いたら歯磨きだと言って石鹸をつけてこすったので、口の中が蟹みたいに泡だらけになったことが分かった。子供達はこの川で元気に遊びまわっていた。私達はゴム会社内のろ過した綺麗な水で洗濯した。 ここに来てから3度目の衛兵についた時、立哨中マラリヤが出て寒気がし始めたので、古参兵と交代したが、後で古参兵からボヤかれた。兵舎内に帰って寝ていたら、衛生兵が耳の血をとって調べてから、尻に注射針を遠慮なくブツーとさして注射してくれた。痛かったがお陰でよくなった。

逃亡兵

2006-08-16 12:02:41 | Weblog
 この頃、兵隊達の間では
 「○○部隊では、中隊全部が野砲まで持って逃亡したそうだ」
 「インドネシア独立軍に行けば、下士官はすぐ2階級位上がって将校になれるそうだ」「兵隊でも下士官にすぐなれるそうだ」「どこの部隊では○○名独立軍に入ったそうだ」といった噂がしきりに流れた。
 事実、うちの部隊でも逃亡者が出た。それと分かると中隊長は捜索隊を出して発見に努めたが、どうしても見つからない者もあった。逃亡して間もなくマラリヤに罹ったり、皮膚病に罹ったりして倒れてしまう場合が多かった。帰って来た兵隊は疥癬(かいせん)にやられて見る影もなかった。中隊長は兵舎内に営倉を作ってそこに入れ、衛兵をつけた。
 又、マラリヤに罹ると、肝臓が指2本分位腫れて胆汁が出なくなり、胃の消化も悪くなる。大腸炎になり、食べても吸収できず死んでいく。熱は下がっても39度位、高い時で41,2度。毎日そんな調子で、脳細胞の血管の弱い人は10日位しか持たない。10人に1人は発狂してしまい、予後不良(医療機関のない所に派遣された分隊)にはそんな犠牲者が出た。
 熱帯潰瘍という皮膚病は、特効薬は駆梅薬サルバルサン(606号)らしいと云われていたが、足の肉を骨までやられている兵隊もいた。治っても跡は赤紫色になり、肉が変形していた。
 その外、私達の知らない風土病が沢山あり、考えれば逃亡は命懸けであったのだが、稀には現地人の所に婿入りした者もいた。現地人の間ではインドネシアの神話のせいもあってか、日本人は優秀だという定評があり、
 「日本人の種をください」という言葉があったくらいで、「日本人の子供を産みたい」と女達は言っていたとの話もあった。

ゴム園

2006-08-15 11:06:52 | Weblog
ゴム園の中の道の両側のゴムの木は殆ど全部、道側地上1m位の所に刃物で切り込みがつけられていた。これは敵の進行を防ぐ為のもので、反対側からパラン(刃物)で一撃すると、道路に両側から倒れて、たちまちバリケードになるものだった。又、戦車濠で道路が寸断されている所もあった。あとでは宿舎の一方のゴムの木を切り倒して防塞とした。
 夜、衛兵に立つと、闇夜には前のゴム林の影で何も見えない。着剣してはいるが、何者かの怪が迫るような気がする。現地人は裸足で歩く。よく見ると鶏のように足を上げる時には指先がすぼまり、着くときには広がる。そして音を立てない。アスファルト道はなおさらだ。目前になって、いうなら、目と鼻の先になって、両方ともびっくりして「オウ」なんて声を上げることもあった。
 真っ暗闇のゴム林の中に、あちこちに小さい蛍のようなものが点いたり消えたりする。
 「あれは何だ」と現地人に聞くと
 「ユーレイだ」と答えた。スマトラにもユーレイがいるのかと笑ったが、何か発光虫かも知れなかった。

ブキチンギ事件

2006-08-14 16:36:29 | Weblog
 またある時(20年12月頃か?)、中部スマトラの各地に収容されている邦人をメダンに輸送する列車の護衛に○○中尉(氏名を忘れた)以下10名位が武装して出動したが、3,4日して、藤森軍曹が先頭に悄然と、全員丸腰でうなだれて帰って来た。
 話を聞けば、その列車がブキチンギ駅に入って停車、そして邦人の乗った客車を切り離して、機関車は発車してしまった。
 「どうしたんだ」と先任将校が交渉すると、そこにインドネシア独立軍の将校が居て
 日本軍が武器を全部、我々に行き渡さなければこのままだ」と、言ったそうだ。
 「我々が持っている武器はそう簡単に渡すわけにはいかない」と断ると
 「それでは、客車の日本人を皆殺しにする」と、脅迫した。その旨を客車に伝えると、邦人は
 「武器を渡してしまえ」と言ったそうだ。人質をとられて仕方なく武装解除を受ける事になった。その後も客車は動かないので、その交渉に行った丸腰の中尉は行方不明となり、後で惨殺死体となって発見された。これがブキチンギ事件と言われるのである。
 この後も邦人を乗せた客車が通り、線路の護衛に出ていた私達に手を振って行ったが、邦人の引き上げにはこうした、軍人の犠牲者があちこちであったらしい。  私は20年8月初旬、ブキチンギ分隊転属の命令を受けていた。住民は気性が荒いと聞いていた。戦況の悪化で立ち消えとなり、又、上等兵進級の内命も立ち消えとなった。
 現在の本部所在地から糧秣受領のトラックは武装した護衛がつき、運転台を銃架にして警戒して行くことになった。ある時、この軍用トラックが襲撃されて、運転の兵士が殺され、糧秣が奪われた。その捜索に行ったら、航空情報連隊の青緑の上着を着た青年が捕らえられていたが、よく見るとその上着にはベットリ赤黒い血がついていた。その青年は「そこで拾った」と言っていたが、殺した者の上着を剥ぎ取って着ていた神経には解しかねるものがあった。
 トラックで走っていると、林の所に褐色の直径6,70cm、高さ2mの蟻塚を見かけた。

 

無条件降伏 3(治安)

2006-08-13 15:35:54 | Weblog
 ここへ移転してから武装解除私達は丸腰になったが、その没収兵器を巡って、スマトラ独立軍との間に紛争があちこちで起こった。
 武器を持った現地人がの華僑を襲撃したし、日本軍も襲われる事態も発生して、治安は日一日と悪化していった。日本軍が主権を放棄したので、独立運動は一気に加速されたが、それを国家として纏(まと)めて行くには時間がかかり、勿論、それを弾圧する力はオランダ軍にはなかった。
 その過渡期の混乱の措置に困った国連は、日本軍に治安の維持を依頼して、解除した武器をそっくり返してきた。それでその中の軽機の試射を下の方でやったのだった。
 話では、武装解除のとき、日本軍が海に砲弾を捨てると、その後から、インドネシア軍が来て、すぐ引き上げて持って行くと言うことだった。それで直接インドネシア軍に渡して欲しいとの交渉があったそうだが、それは国連との約束で、出来ないのだそうだ。
 又、負けた日本軍ということで、力を得たインドネシア軍が、小馬鹿にした様子もあった。堪りかねた近衛師団では、戦車を1列に並べて、いわゆるローラー作戦をやって、家も椰子の木も平たくペシャンコにしてしまったそうだ。それからは独立軍も恐れて無謀な事はしなくなった。
 又、暴動が起きたから至急鎮圧に出動ということで、私も命令を受けて、武装して軍用貨車で出かけた。車は4輪駆動で山道をあちこち駆け廻ったが、目的地の手前の所で、潅木の陰に17,8歳位の男2人が見えたがすぐ隠れた。「それ居た」というので若い兵隊はすぐ安全装置を外し、運転台を銃架にして射撃しようとした。私は
 「撃つな、撃つなッ!」と叫んで止めたが、その兵隊は3,4発射撃した。
 しかし、青年は木の陰から元気に飛び出し、の方に逃げて行った。私は
 《命中しなくて良かった》と、人間が人間を撃つのを見たのは初めてだったので、命中しなくて本当に良かったと思った。
 に入ってみると、華僑の店がメチャ、クチャにやられていた。目ぼしい物は全部持ち去られていた。華僑は私達が行った所の山奥のにも必ず店を構えていた。この時、の青年が
 「日本軍はいけない」と言う。
 「どうしてだ」
 「我々はチャイナをやっつけているんだ。チャイナは日本の敵だろう」
 「チャイナは日本の敵には違いなかったが」
 「その敵をやっつけている我々を日本軍が攻撃してくるのはいけない事だ」
 「成る程ね。しかし、こんな事をするのは良くない。唯、私達は上からの命令で来たんだ」と、説明しても憤慨していた。私達はそれだけで引き上げた。
 2,3日してから、首謀者と言われる青年が捕まってきた。取調べに対してもそのように答えたという。その青年は衛兵所の隣に作った営倉に2日ばかりいたが釈放されて、笑いながら手を振って帰っていった。
 又、ある時、インドネシア独立軍と川を挟んで対峙したことがあった。私も命令を受けて、武装して軍用トラックで出動した。現地に着いて間もなく他の兵隊と交代して中隊に帰ったが、この時は山砲で砲撃して鎮圧したとのことであった。

無条件降伏 2(生活の中で)

2006-08-12 10:05:49 | Weblog
 着いて2,3日は身辺の整理で忙しかったが、その後は仕事もなくのんびりしていた。ある日、
 「髪の毛が伸びている者は、バリカンで散髪せよ」とのことで本部から廻ってきたバリカンを借りてきて、西村一等兵と相互にやることにしたが、調子が悪く髪を食い込んで、一寸も刈れなかった。仕方がないので事務所の当番にそう言うと、「これででもやれ」と安全カミソリを1本くれた。西村に
 「どうするか」と聞くと、「お前を先にやってやる」と言ってゾリゾリと剃ってくれた。ツルツルの青坊主だ。
 「今度は西村、お前の番だ」と剃りだしたら、半分くらいのところで
 「痛いぞ」と言う。石鹸を付け直してやっても、やはり痛いと言う。無理もない、私の分を剃った後だから、切れなくなっていたのだ。それでなるべく痛くないように、痛くないようにして剃ってやった。
 ここに移動してから、食糧自給の意味で、タピオカのもやしを作ることになった。タピオカの葉には、青酸が含まれていて、危険だと言う話があったのだが、それでもやると言う。斉藤お前も手伝えということで、作業に出た。ゴム林の中に、深さ40cm位の細長い溝を掘り、底にタピオカの幹をぎっしり並べ、その上にゴムの枯葉で覆うのだ。2日位で終ったが、このもやし作りも、2,3回採って、医務室からの注意で止めになったようだ。
 その次は南方ほうれん草採取の使役があった。この草は高さ1m位になる香りが強く、茹でるとアクが出るが、軟らかく青緑色でシャキシャキして丁度日本のほうれん草みたいだった。この使役に各班ともよく出された。
 ある日、使役で小高い丘の上でこの草を4,5人で採っていると、裾の方で軽機の射撃音が聞こえた。と、頭上をヒューンヒューンという音が飛び去った。
 「下手くそヤロー」うっかりすると即死だったかも知れんぞと、早々に丘を下りた。