「私の従軍記」 子供たちへ

平成元年父の誕生日に贈ってくれた本、応召されて帰還するまでの4年間の従軍記を今感謝を込めてブログに載せてみたいと思います

ピーヤ(慰安所)

2006-08-05 19:01:53 | Weblog
 よく手拭くらいの白布の支給があった。他の者は煙草なんかと替えていたようだが、私はそれをためておいて、市場の現地人の仕立て屋で、賃金を払って白の半ズボンを作らせた。
 「斉藤、お前だけだぞ、兵隊で私物をはいているのは」と、大島上等兵が注意したが、私は「ハア、そうですか」と、とぼけた返事をしていた。この半ズボンは軽くて涼しかった。
 現地人は「トアン(旦那)バジュ(布、着物)カシ(くれ)」とよく言ったが、1人だけにやる訳にはいかず、ただ笑っていた。
 町外れにピーヤ(慰安所)があった。司令部が来るまでにはあったかどうか知らなかったので、多分、一緒に連れてきたのだろう。行く日は各部隊に割り当てになっていた。その割り当ての日に、見に行こうということになって、4,5人で出かけた。
 小綺麗な家が2、3軒あって、そこだという。現地人の子供は
 「悪い所だ、行ってはいけない」と、私達によく言った。
 ここの女達はインドネシア人で、何人居たか分からなかった。
 私達は女達と馬鹿話をしていたが、井ノ口一等兵(もう死んでしまったから書いてよかろう)が、女を指名して向こうの家に入った。暫らくしてから若いピーがその家を指して、
 「覗いて見よう」と言い出したので、「よかろう」と行くことにした。後から女が2人ついてきた。窓は鎧戸を閉めてあった。女達はクスクス笑いながら、鎧のあいだに手を入れて押し広げて覗いた。
 「見えない」と言う。代わって男達が覗いたがやはり「見えない」と言った。
 「おかしいな」と言っていたら、井ノ口が出て来た。
 「どうだった?」と聞く、
 「いや、どうしても出ないんだ」と、不機嫌な顔をして答えた。後から出て来た女も、すまなさそうな顔をしていた。
 井ノ口は、福岡の博多、津屋崎の豪家の息子で、早稲田の予備校出で、私より3ヶ月早く上等兵になった。そして、コタラジャに移った途端に入院した。タケゴンに来たらまた、入院した。
 「お前は移ると直ぐ病気するね」と言ったら「そんな事は無い」と、本気で怒って危うく喧嘩になろうとしたこともあった。
 元の宿舎にいた時、大島上等兵が
 「今日は良いものを見たぞ」と言って帰ってきた。
 「どうしたんですか?」
 「風が吹いて若い女のチャイナ服の裾が上のほうにまくれ上がったんで、股のところが見えた」
 「本当ですか、あそこのところが見えましたか?」
 「いや、あいつらは日本の男の褌みたいなのをはいていたんでね」
 「なあんだ」 華僑の女の子は日本の褌みたいなのをはいていた。
 現地人の町の人はどうか知らないが、山のではあそこは1辺が10cm位の三角形のものを腰骨から吊るして、隠しているだけの女もいた。薪かなにか頭に載せて運んでいるのに出会ったが、よくしたもので決して見えなかった。余裕がある者は、そのデルタを銀で作ったのを下げていると言うことだ。