「私の従軍記」 子供たちへ

平成元年父の誕生日に贈ってくれた本、応召されて帰還するまでの4年間の従軍記を今感謝を込めてブログに載せてみたいと思います

ブキチンギ事件

2006-08-14 16:36:29 | Weblog
 またある時(20年12月頃か?)、中部スマトラの各地に収容されている邦人をメダンに輸送する列車の護衛に○○中尉(氏名を忘れた)以下10名位が武装して出動したが、3,4日して、藤森軍曹が先頭に悄然と、全員丸腰でうなだれて帰って来た。
 話を聞けば、その列車がブキチンギ駅に入って停車、そして邦人の乗った客車を切り離して、機関車は発車してしまった。
 「どうしたんだ」と先任将校が交渉すると、そこにインドネシア独立軍の将校が居て
 日本軍が武器を全部、我々に行き渡さなければこのままだ」と、言ったそうだ。
 「我々が持っている武器はそう簡単に渡すわけにはいかない」と断ると
 「それでは、客車の日本人を皆殺しにする」と、脅迫した。その旨を客車に伝えると、邦人は
 「武器を渡してしまえ」と言ったそうだ。人質をとられて仕方なく武装解除を受ける事になった。その後も客車は動かないので、その交渉に行った丸腰の中尉は行方不明となり、後で惨殺死体となって発見された。これがブキチンギ事件と言われるのである。
 この後も邦人を乗せた客車が通り、線路の護衛に出ていた私達に手を振って行ったが、邦人の引き上げにはこうした、軍人の犠牲者があちこちであったらしい。  私は20年8月初旬、ブキチンギ分隊転属の命令を受けていた。住民は気性が荒いと聞いていた。戦況の悪化で立ち消えとなり、又、上等兵進級の内命も立ち消えとなった。
 現在の本部所在地から糧秣受領のトラックは武装した護衛がつき、運転台を銃架にして警戒して行くことになった。ある時、この軍用トラックが襲撃されて、運転の兵士が殺され、糧秣が奪われた。その捜索に行ったら、航空情報連隊の青緑の上着を着た青年が捕らえられていたが、よく見るとその上着にはベットリ赤黒い血がついていた。その青年は「そこで拾った」と言っていたが、殺した者の上着を剥ぎ取って着ていた神経には解しかねるものがあった。
 トラックで走っていると、林の所に褐色の直径6,70cm、高さ2mの蟻塚を見かけた。