「私の従軍記」 子供たちへ

平成元年父の誕生日に贈ってくれた本、応召されて帰還するまでの4年間の従軍記を今感謝を込めてブログに載せてみたいと思います

クルアン検問所 1

2006-08-25 18:47:01 | Weblog
 2月14日、【バトバハ】出発して【メンキホール】着。
 ここの宿舎で、軍隊手帳その外軍事関係のものは一切焼却処分せよということで、携行品の再点検をさせられ、殆ど身の回りの物だけになった。
 私もこの時、千人針や写真を処分したが、千人針に縫いこんであった5銭銅貨が川底に沈んでいくのをじーっと見つめていた。
 又、ここの宿舎を預かっている日本残留兵達が石鹸に不自由しているというので、みんな出してやったが、後で彼らはそうして召し上げた物資で豊かに暮らしているという話を聞いて、「馬鹿らしいことをした、あいつ等は騙しやがった」と悔しがった。
 2月15日、【メンキホール】を出発して【クルアン】着。
 ここで連隊本部からの指令。
 「明日の検問所では、連合軍の捕虜は見たことはない。仕事は飯炊きをしていたと答えよ」であった。
 2月16日、クルアン検問所通過。
 クルアン検問所はクルアン飛行場跡にあった。飛行場には日の丸をつけた戦闘機が数機、掩蔽(えんぺい)壕の中にあった。
 「なーんだ、まだ飛行機はあったじゃないか」と誰もが言った。その向こうには壊れた残骸が積んであった。飛行場の入口から滑走路を1000m位駆け足行軍をさせられた。
 周りには検問を待っている部隊が500人位いた。向こうに白いのと灰色のと黒色のキャンプが作ってあり、白色は戦犯の疑いなし、灰色は疑いあり、黒色は戦犯だということであった。時間が経つにつれて、みんなの胸は一様に不安で重苦しくなった。
 検問を受けたのは、飛行場の本部のロビーの前で、長いテーブルが置かれ、10人位の英人が椅子に腰掛け、武装した英兵が周囲を警戒していた。最初の話では5人づつ検問するということだったが、私達は10人位1度に受けたと思う。

 

最新の画像もっと見る

コメントを投稿