「私の従軍記」 子供たちへ

平成元年父の誕生日に贈ってくれた本、応召されて帰還するまでの4年間の従軍記を今感謝を込めてブログに載せてみたいと思います

無条件降伏 1

2006-08-11 19:14:30 | Weblog
 それから、続けて日本の無条件降伏を知らされた。やはり、そうかとがっくりきた。当分、南方軍総司令部からの指示があるまで、ここで暮らすという。
 運んできたベッドの布団は、雨でベチャベチャ、枕にはもうカビが生えていたので捨てる。巻き脚袢をとり、靴を脱ごうとするが連日の雨で足がふやけて、なかなか脱げず一苦労。今度は靴下が足にくっつき、ふやけて生白くなっていた。銃も錆だらけ、剣もヤッコラサとよくやく引き抜くと赤錆だらけだった。
 ここは元オランダ人のゴム会社の倉庫らしく、2階の1室をあてがわれて、ここで生活することになった。
 北スマトラの各地に展開していた分隊が1ヶ所に集まった。船で、メダンでまた、電信第6連隊からの同年兵の顔を、「元気だったか」と顔を見ることができた。
 本部の者達と通信の話もすることができた。
 「本部に居ると、今、この分隊の誰が打っているか、すぐわかるんですね。1人、1人癖がありますから。今、斎藤さんが打っているな、と分かりましたよ綺麗な字でしたからね。」とも言われた。
 北スマトラに展開した当時は、定刻になって、順番待ちで聞いていると、ヨタヨタした電波が飛んでいた。せっかちに叩く人、のんびり叩く人、速かったり遅かったりする人達のが飛び通っていた。
 しかし、後ではみんな上手になって
 「情報連隊の通信も、ようやく小学校5,6年生位になりましたね。」と、ある将校に言ったら、
 「そうだね、元は恥ずかしい位だったからね。どこの部隊だと言われそうな気がしていたがね。」と笑った。
 はっきりした記憶ではないが、確かにここで武装解除。銃も剣も通信機もピカピカに磨き上げて、本部に提出した。
 命とも宝とも思って後生大事に、守ってきた3号甲無線機ともお別れした
 こんな事もあった。タケゴンで通信当番の時、私が受けていたら、分隊長が来て、見ていたが
 「俺にやらせろ」と言って交代した。私は一寸カンにきたので
 「もっと速く送れ」と打電して代わった。本部の送信者も頭に来たのか、さっきよりもうんと速度を上げて送った。これでは分隊長が受かるはずがない。
 「駄目だ」と言って代わった事もあった。