「私の従軍記」 子供たちへ

平成元年父の誕生日に贈ってくれた本、応召されて帰還するまでの4年間の従軍記を今感謝を込めてブログに載せてみたいと思います

停戦協定 3

2006-08-10 18:38:49 | Weblog
 必要なものは残らず運び出し、後にはガラクタと通信所が残った。ガラクタは火をつけて焼く。大島上等兵は何処で手に入れたのか、ピストルの弾丸を、4,5発持って来て、それを火の中に投げ込もうとしたので、渡辺上等兵が
 「危ないから止めろ!」と、止めたがかまわず投げ込んだ。ポン、ポンと弾けて弾丸が飛んだ。渡辺上等兵が
 「危ないことをする。馬鹿野郎!」と、怒鳴った。
 「この家はどうしよう?」「このまま残しとけ」「燃やしてしまえ」と、言っているうちに、大島上等兵が火をつけてしまった。
 通信所の焼ける煙を後に、私達は出発した。一刻も早く中隊本部に集結せねばならぬという気持ちがいっぱいで、振り返り感慨に耽る余裕はなかった。
 タケゴンの盆地から峠を越えて、いつか来た九十九曲がりの道を走った。少し下った所で現地人の22,3歳位の女が 「ビルンまで便乗させて欲しい」と頼んだので、ついでだから良かろうと荷台に私達と一緒に腰掛けた。
 それから更に下ったら、雨が降り出したので、シートを張った。外は見えなくなった。女に大島上等兵がキスでもしようとしたらしかった。
 「私には夫があるの」と言う声が聞こえた。女はビルンで降りた。
 ランサの兵站司令部に着いたが、内外とも兵隊達でとても混雑していた。私達は庭先に火が燃えていたので、濡れた衣服を乾かしたが、一寸乾いただけ。宿舎の板の間に巻き脚袢、編上げ靴のまま眠る。
 翌朝出発。また雨。私が「行方も知れぬ我が運命(さだめ)かな」と言ったら、佐々木少尉は黙ってうなづいていた。
 何処をどう走ったのかセチレイに着いたが、中隊本部は既にメダンの方に引き移ったという。メダンに行く。メダンでは、もっと奥の方に引き越したと言われて、そちらに行く。
 引き越し先にようやく辿り着く。ここも兵隊が右往左往して混雑していた。車から荷物を降ろして、佐々木少尉が宮原中隊長に到着の旨を報告すると、
 「随分遅かったじゃないか」と、言われた。派遣分隊では私達のほかはもう1分隊だけということだった。