「私の従軍記」 子供たちへ

平成元年父の誕生日に贈ってくれた本、応召されて帰還するまでの4年間の従軍記を今感謝を込めてブログに載せてみたいと思います

作業場で

2006-09-30 21:56:58 | Weblog
 私は背が低かったので、荷台の高いトラックに積む時には苦労した。29作業所で鉄板を乗せるときには防暑帽の上を滑らせるようにしたが、
 「斉藤、危ないから止めろ」と、みんなが心配してくれたので止めたけど、それまでに防暑帽は擦り切れて壊れてしまった。
 食糧倉庫作業の埠頭で、米の百キロ袋を船からトラックに移し替えるときは2回位運んだら
 「斉藤、お前休んでおれよ」と若い者が交代してくれた。
 船から道板を使って運ぶ作業では、米袋は重いし、道板はヒョイ、ヒョイとたわむし大変な作業、これも1回位運んで後は休憩した。誰かがワザとか何か分からぬが2,3度米袋を海に落としたので、この作業は4,5日で止めになった。
 作業場の行き帰りに英兵が雨上がりの後なんか、頭から体中泥だらけにしてラグビーをやっているのを見た。 これは作業場だけかもしれないが、英軍では上官に対する敬礼は朝1回すれば良いとのことで、日本軍のように会う度ごとにするという事ではない様であった。しかし、英軍の本部で部屋の出入りの態度が悪いとかで准尉らしき者から何回もやり直しさせられている兵隊を見たこともある。
 これは作業に行く途中のことであるが、
 遠い所の作業場では軍用トラックで連れに来たが、近い所には隊伍を組んで歩いた。作業場に入って最初の頃、歩いている後ろから男女の若い労働者を荷台に満載したトラックが、追い抜きざま
 「バカヤロウ!」「コノヤロウ!」と、罵声を浴びせていくことがよくあった。
 こんな時には、負けた悲哀を痛切に感じたものだ
 ある時、罵声を浴びせたトラックが衝突事故を起こしていた。何しろ荷台の上に立ってお互いにつかまり合って乗っているものだから、大変なことになって、頭から血を流したりしながら、ワーワー泣き喚いているのを見て
 「ザマー見やがれ」と、みんな笑って通った。何か仇を討ったような気がしたものだ。
 又、道路に事故で死んだ黒人の死体が転がっていたこともあった。体は黒いが、手足の裏は白かった。

英兵

2006-09-29 10:34:48 | Weblog
 作業場で私が接した英兵の大部分は学問の程度が低かった
 「学校には何年まで行ったか?」と聞くと「3年まで行った」「それからどうした?」「炭鉱で働いていた。今度兵隊でお金を貯め、帰ったら又行くつもりだ」なんて20歳位のが答えた。大学に行くというのではなくて、小学4年に行くというのだ。
 それで掛け算の九九も理解できない訳が分かった。
 荷物のラベルも逆さに置いてあれば読めないし、斜めであれば顔を斜めに傾けるし、縦に置いてあれば顔を真横にして読む者もいた。
 こんな状態だから、いろいろとゴタゴタがある時には交渉がはかどらない。訳が分からないのだ。こんな時には
 「将校を呼ぼう」と提案する。将校はさすがに教育を受けているので、話はよく分かった。
 日本の義務教育制度の普及徹底の効果は抜群であり、普通教育の程度はおそらく世界一ではないかと話し合った

 これは英軍戦死者の遺骨収集に行ったときのこと、
 1回目は小高いスロープの丘の英軍戦死者の墓地に白木の十字架の墓標が5列位並んでいる横に、新しく長さ1・5m、幅50cm、深さ50cm位の穴をスコップで掘らされた。全部で30柱分ほど用意された。
 2回目は英兵のジープに乗って、3人で遺骨掘りに行かされた。とある所で車を停めた英兵が地図を見ながら、「ここを掘れ」と指図した。そこらの土は少し掘ると脂の付いた肉の様な色をしていたので、白い土や石にあたると《出たか?》とオッカナビックリで《何も出ませんように》と祈りながら約30cmほど掘ったところ、英兵が「作業終わりだ」と言ったので《やれやれ何も出ずによかった》とジープに乗った。
 この埋葬の情報は、華僑の知らせによるものと言われていたが、真偽は怪しかった。遺骨の出た所の作業をした者は臭いが気になって昼飯がまずかったと言っていた。
 墓地に行って休憩をしていると1台、2台とトラックが着いた。幌の着いた荷台から毛布に包まれた遺体が英兵によって地面に降ろされた。穴の所に持って行って静かに降ろした。毛布は真新しい純毛のようであった。
 私達日本人は丁寧に扱ったが、英兵達は粗雑だった。穴の中にすっぽり入らない時は軍靴で踏んづけて押し込むこともあったと言う。私達は
 「乱暴なことをするもんだ」と話した。

英語

2006-09-28 18:36:15 | Weblog
 日本人の間でもお国なまりが入ったりすると、分からないことがあるのに作業は英人が指導するのだからトラブルがあった。そこで初めには英人から言われたら、
 「ノウ、スピーキング イングリッシュ(私は英語は話せません)と答えるが無難だと教えられたが、実際それをやってみたら、相手から
 「そんな立派な英語が使えるではないか」と怒られたという話があった。
 ある日、私が建築現場の作業に行ったとき、若い兵士が何か道具を借りて来いと言いつけた。言葉が分からないので口写しの英語でそこから30m位離れた所で大工作業をしていた者にそう言ったら「そんな物は無いよ」と言う。 戻って英兵に手まねでそう伝えると、怒った顔をしてツカツカと作業隊員の所に行ってその道具を持って来た。そして私の顔を睨みつけて何か怒鳴った。
 「貴様、嘘をついたな!」と言っているそうだが、私はどうしてよいか分からず、立ち往生してしまった。すると同じ作業場にいた者が
 「斉藤、謝れ、敬礼をしろ!」と大声で叫んでくれた。 私はすぐに直立不動の姿勢で挙手の礼をして英兵の顔を見ていた。もしかしたら、帰還不能になるのではないかとの思いがチラッと脳裏をかすめた。
 やがて事情が分かったらしく、英兵の顔が穏やかになり、何か言ってその場はやっと収まった。そんな事もあった。

変な作業 2

2006-09-27 09:59:58 | Weblog
 ある頑丈な体つきをした兵隊が、作業に行って女の士官(階級は分からない)に拳銃で脅されて、個室に連れ込まれ、3人から翫(もてあそぶ)されたと言う話が2,3件あったらしく、俺もそんな目に1度会ってみたいなどと言っていた者も、悪性の性病をうつされて、治療に医務室も困っているとのことで青くなってしまった。
 被服倉庫には、女の生理帯まであった。作業隊員が股の間に挟んでクーニャンをからかった。又、ここには普通の女の履く靴も沢山あった。それをワザと履けないように壊して帰る者もいた。
 食糧倉庫には木のケースに詰まったパインの缶詰が幾段も高く積んであった。その1番上の缶詰を1個抜き出して、レーションに入っていた缶切りで穴をあけ、下に向けて入れておくとその汁で下の缶詰が全部腐食して駄目になるそうだ。そんな事をやる者も現れた。
 レーションの缶切りは小型で3,5cm×2cm位で、その刃を鑢(やすり)なんかで研ぐので切れ味はとても良かった。これを使えば缶詰なんか少しの音も立てずにスイスイ切り開けられた。
 苦心惨憺して盗み出した缶詰の中身が帰って幕舎で開けてみたら塩の大きな粒だったりして
 「こりゃ、英語の綴りぐらいは読めんといけないね」と囁かれたものだ。

変な作業 1

2006-09-26 18:34:13 | Weblog
 残業では29作業所で、雨の降る日鉄骨作業をやらされたドンゴロスを頭から被り、雨に濡れた姿は我ながら哀れであった。この時は宮原中隊長が心配して見に来てくれたので、英兵も作業を終わりにして帰した。
 残業もあったが、英兵のズル休みに便乗したこともあった。ある日、作業所名は忘れたが、私達3人にジープに乗れという。《作業する所に連れて行くのだな》と、乗ると、走り出して日本人墓地の横を通り、ロータリーを廻り、マングローブの生えている海辺やカンポンを60kmを超すスピードで走りまわった。ベルトにしっかりつかまっていなくては放り出されそうだった。支那人の店先で昼飯。そして又ジープで走りまわって午後3時頃もとの場所に帰り
 「今日の作業はこれで終わり」であった。「なあーんだ」と言いながら幕舎に帰った。シンガポールを1日中、黙って走り回っただけだった。
 これはサボルことにはならないかも知れないが、食糧倉庫とか29作業所に行った時、積んである品物を勘定せよと言われて、縦×横×高さで幾つと答えを出すと決まって「ノー」とくる。どうしてだと聞くと
 「戦勝国の俺達が数えても1日はかかるのに、負けた国のお前達がそんなに早く数えられる訳がない」の1点張り、頑として受け付けない。仕方がないので向こうに合わせて、朝から言われたら午後3時頃、幾つだったと報告すると
 [OK」という次第。私も29作業所でバールの本数を数えたときもこの要領でやって[OK」だった。しかし、その間、寝たりなんか出来ない。その品物のある所に付いていなければならない。よく作業場でなんにもしないでブラブラしているのを見かけて
 「何をしているんだ」と聞くから「品物を数えているのだ」と答えた。


 

チュリチュリ(盗み) 2

2006-09-25 18:36:46 | Weblog
 ある時、食糧倉庫の作業から帰りかけたら、
 「お前達は残れ」と、4,5人足止めをくった。何事だろうと残っていると、トラックに「乗れ」と監視兵つきで言う。仕方なく大型トラックに乗ったらすぐ走り出して、山の中の道を行った。もうその頃は夕方近くだった。山の中で車を止めると、「こっちへ来い」と手招きした。行って見ると谷間の木陰にドンゴロス(麻袋)の大きな砂糖袋が積んであった。 「これを積め」それを積み、もう1ヵ所でも同じ物を積んで帰ったが、真っ暗くなってしまった。聞けば支那人が砂糖をトラックごと盗んだのが分かり、これを取り戻しに行ったのだそうで、帰るのが遅くなったので中隊全部が心配してくれていた。帰る時、《砂糖でも少しくれないかな》と思ったが何もくれなかった。
 ここでは現場から300m位離れたら、見つかっても「これは今別の人から買ったものだ」と主張できるとかで罪にはならないので、窃盗の現場を押さえられねば良いのだそうだ。
 いつか作業に行く途中、道端に支那人が3,4人集まって騒いでいた。聞けば
 「私の家がなくなった」という次第。そういえば昨日作業から帰る時、アタップ葺きの4坪位の家が建築中だったが、今朝は何もなく消えてしまっている。トラックを持って来てバラして運んで行くのだそうで、今頃どこまで行ったやら見つけようもない。
 泥棒も一生懸命研究すれば捕まらずに、いろんなことが出来ることが分かったが、私はそんな事をやれば心と血が汚れるような気がして嫌だった。よく
 「君達のは、ここでは生命を保つ為と、敵さんの物だから仕方がないと思うが、あまりやっていると習性になってしまうぞ。内地に帰ってから思わず癖が出ないとも限らんから、ほどほどに加減してやれよ」と、言っていた。 するとニヤリと笑って
 「いやあー、内地に帰ったらやりませんよ」と弁解していた。

チュリチュリ(盗み) 1

2006-09-24 11:27:58 | Weblog
 煙草と交換する為に作業に行ったら、小さくて金目になりそうな物を失敬することが流行した。 ライター石を失敬して、自動車のガソリンタンクに隠して持ち帰ったり、作業中塀の外に放り出して置いて、帰る時それを拾ってきたり、いろいろ知恵を絞ってやっていた。それで、後では帰る時、身体検査をする作業所が出てきた。
 黒人兵が出口の門のところで1人1人服装検査をやった。胸のポケットに入れておいて、下のズボンを調べて上に移るとき、素早く手に握りかえて高く差し上げる。黒人兵が上着のポケットを調べている間に、ズボンのポケットに移す、いわば手品のようなことをやる者もいた。列の後から並んで見ていると、高く上げた手の中に品物があるのが分かる。が、その者が無事OKで通過すると、みんな「やったー」と笑ったものだ。
 又、ある幕舎ではミシン1台組み立てたということだったが、このミシンのある倉庫はカマボコ倉庫と言われる作りで、出口と入り口の扉の所で、衛兵が1人1人チェックして雑嚢から総て調べているのに、あのミシンを持ち出したのは大した腕だと感心したものだ。
 又、タイプライター1台を失敬したということで、英軍が幕舎を捜索したが、犯人は分からずじまいだった。こんな大がかりな物は、幕舎内のみんなが手分けして、分解されるだけ分解して、チリヂリバラバラ持ち帰るのだそうで、日数も相当に要するのだとも言っていた。
 最初は万引き位が段々窃盗になり、それも計画的になってきた。目をつけた品物のある倉庫に作業に行ったとき、明日作業割り当てのない休みの者が1人、積荷の影に隠れて残り、英兵が帰って夜になると、内側からトタンを取り付けてあるボルトのナットを外して、品物を外に出す。すると、外の道路から境界の金網を外して(これも昼間ボルトのナットを外しておくか、鉄線鋏で切って穴をあけ、ふさいでチョッと見ては絶対に分からないようにしておく)侵入して、この品物を道路に運び出して、現地人の自動車で運ぶという事に発展していった。
 又、英兵も私達を使って堂々と軍用物資を支那人のトラックで運んで売っていた。トラックに伝票より10枚位多く鉄板を積ませ、それを支那人の金物商に売りつけていたし、こんな作業に行った者は英兵が店から出てきた時、
 「何か我々にも呉れないと、将校に言うぞ」と、片言英語と手様で脅迫すると、英兵は「この野郎」という顔をしながら、煙草を買ってくれたという。
 又、黒人兵も同じような事をやった。この時は煙草やパンをくれて、「言うなよ」と照れ隠しで白い歯を出して笑った。

 

たにし(モク)拾い

2006-09-22 18:20:31 | Weblog
 私は煙草を喫まないからよかったが、煙草の好きな者は随分困ったらしい。いろいろの草の葉を巻いて吸ったり、道路に落ちている吸い残しを拾って、幕舎に帰ってからそれをほぐし、巻き直して吸っていた。
 29作業所には徒歩だったので、道端に昨夜からの吸殻を拾うのには都合が良かったが、先頭の者が拾ってしまうので、後の者は機会がなかった。それでなるべく先頭を歩きたがった。この吸殻を「たにし」と呼んでいた。もし吸い口に赤い紅でも着いていたら、大変なもので、みんなに見せびらかして得意になっている者もいた。

清掃会社のストライキ

2006-09-21 13:12:53 | Weblog
 それから清掃会社がストライキをしていたので厠尿の処理作業に早速かり出された。シンガポールの一般市民(水洗式をしていない者)は便器を使っていて、毎日清掃車がそれを集めて、厠尿処理場で処理した後、コンクリート土管を通じて沖合いに放流する仕組みになっていた。
 それでこれを毎日集めに来なくなると便器に厠尿が溢れることになるので、我々が急遽動員された訳だった。
 トラックに大きな桶を4つ位積んで指定された地区(私達が行ったのは支那人街)の1軒1軒を巡って便器の厠尿をこれにあけて、いっぱいになるとこれを処理場に運ぶのである。
 私は1度厠尿処理場(小規模のもの)に行ったことがあるが、投入口は1.5mに4m、深さ3m位で、底には厠尿が渦を巻いて上下していた。ここでカッターで細切れにされるのだそうだ。支那人の女が2人で肥桶を担いできて投入して行った。これは近くの者だろう。異様な臭気が鼻をつき吐き気がした。そこの横のなるべく離れた所で食事をしたが、まことに味気ないものだった。
 厠尿処理作業は長く続いたが、私が出たのは3回位でそれからは他のものと交代してやった。この作業の魅力は煙草を住民がくれる事にあった。便器に手をかけて、「煙草をくれ」と要求すると、住民は糞尿攻めを恐れて何本かを手渡すのだそうだ。煙草のみの者は争ってこの作業に行こうとしたが、私は煙草とは縁がないので代わってやっていた。
 3回目の時だったと思うが、郊外の支那人街に行ったら、銃を持った支那人が2階から階段を降りてきて何かわめいていた。監視についてきていたインド兵が慌てて走って行って押し止め、私達に
 「早く逃げろ」と手様をした。私達はびっくりして急いで駆け出して逃げたが、後でその監視兵に聞くと
 「俺の子が日本兵に殺されたから、俺が仇を討ってやるのだ」
 「あの者達は、殺した日本兵とは違う」と言っても
 「それでも殺してやる」と言ったそうだ。監視のインド兵がたまたま近くにいて止めてくれたから良かったものの、私達だけだったら殺されていたかもしれないと話し合った。
 ある時、幕舎の者が「今日はびっくりした」と言って帰って来た。
 「どうしたんだ?」
 「支那人街に行ったら、若い女がオールヌードで2階から降りてきて、オーイ日本の兵隊さんと呼ぶんだ」みんな羨ましそうに
 「ヘエー、そうかい」「肌が白くて綺麗だったぞ」「フーン、そこであそこは?」「よく見なかった」「馬鹿野郎」で幕舎内は笑い声が沸いた。

冷凍会社のストライキ

2006-09-20 22:07:35 | Weblog
 それから冷凍会社の作業、これも現地人作業員のストライキの肩代わりであった。冷蔵庫の中は零下30度位もあったか、満州で着た懐かしの防寒外套に防寒手袋、防寒帽を被って、白いガーゼに包まれた冷凍肉をトラックに積んだり、あるときはトラックから倉庫内に運び込んだりした。凍りついた中での作業は滑って危険であった。1時間作業をすると1時間位の休憩、外に出て防寒用具をとると今度は熱帯の30度近い気温だから温度差50度近い、体がふやけたようになってぐったりしてくる。「これは重労働だ」とみんな言った。午前中2回、午後2回作業したが体の調子が狂ってしまうような気がした。ここは2日位行った。
 それからある日、トラックで冷凍肉が続々と作業隊に運び込まれた。そしてその日のおかずは肉の煮たものだった。その次の日もトラックで運び込まれた。本部から
 「肉を配給するから欲しい幕舎は炊事場まで貰いに来い」と指図があった。うちの幕舎でも大きな塊を貰ってきて、水煮をして食ったがあまり美味しくはなかった。何か大きな魚の白身の所を煮たみたいで脂気がなかった。
 「どうしたんだ」みんなが不思議がったが、ストライキが長引いて肉が腐りかけてきたので緊急処分したらしいが、肉攻めが3,4日続いたので誰もがウンザリしてしまった。
 それからずーっと後で、コーンマトンの配給があった。コーンビーフに慣れていた私達はマトンの異なった臭いにはチョッと戸惑ったかたちであった。今までいろいろの獣肉を食ったが、スマトラのタケゴンで食った若鹿の肉が柔らかく、筋もなく、臭いも少なく1番美味しかった。