「私の従軍記」 子供たちへ

平成元年父の誕生日に贈ってくれた本、応召されて帰還するまでの4年間の従軍記を今感謝を込めてブログに載せてみたいと思います

新通信所

2006-08-02 10:25:14 | Weblog
 新しい通信所の櫓建設に使う釘や鎹(かすがい)を、現地人に鉄の柵を切って作らせたと聞いて、余り無茶な事をさせるのは良くないと思ったものだ。
 新しい通信所に移って、井戸がないので畑の中に掘りぬき井戸を、大島、渡辺、小川、中西たちが掘った。5,6mで水が湧いた。思ったより綺麗な水だった。
 ここは元の兵舎より、2kmくらい南の畑の中だったが、広さは5アールくらいはあったと思う。広い道から60m位離れ、畦よりちょっと広い80cm位幅の道を通って行く。両側は水田だった。
 監視硝の櫓は高さが30m位あった。夜の当番になると、登っていって誰もが寝ていたようだ。岡田分隊長が下から呼んでも、返事がないので登って行くが、櫓がぐらぐらと揺れるので、誰もが目を覚まし、登りつく頃にはシャンとして立硝していた。
 この新しい監視硝に移ってから、双眼鏡が支給された。敵機をいち早く発見する為だったが、監視に立っても四六時中これで当てなく空を覗いている訳にもいかず、分隊長が外出から帰ってくるのを見つけ、「オーイ、分隊長が帰ってくるぞオー」と下の通信所に叫んだり、月の夜は月の表面のアバタ(凸凹)を見たり、南西の方向にあったサルタン(郡長)の家のマンデー場を覗いたりした。マンデー場には、それから板囲いが作られた。
 隣の畑は現地人がタピオカを作っていたが、後では垣根の裾を少し広げてそこから入り込み、タピオカの根を掘り取り、跡を元のようにしておいた。しかし、現地人は跡で知り、「上等ない」と言っていた。
 大島、渡辺上等兵は、新舎の外の畑に菜、豆等を蒔きつけた。1ヶ月位したら、採って食えるようになった。支給される水牛の肉と油炒めしたのが食卓に上がるようになった。