「私の従軍記」 子供たちへ

平成元年父の誕生日に贈ってくれた本、応召されて帰還するまでの4年間の従軍記を今感謝を込めてブログに載せてみたいと思います

故郷へ その2(最終)

2006-10-26 18:53:46 | Weblog
 小学校の前を通り、印鑰(いんにゃく)神社の横を曲がった。
 「お陰様で無事に生きて帰ることが出来ました」とお礼を言わなければ ならないなと思ったが、
敗残の身がなんとなく恥ずかしく、又今日は荷物運びの人も連れているのだから、
次の日にしようと決めて頭だけ下げて通り過ぎた。
 心の中では、なるべく人に逢わないようにと考えながら歩いていたが、
幸いに昼過ぎだったから人通りはなく、花岡で宮崎末彦さん1人に会っただけで家に帰り着くことが出来た。
 チズエ(妹)の手紙どおり、前庭の松の木はなかった。そこら辺りにコスモスの花が10株ばかり美しく咲いていた。
 「ただいま」と言って、4年ぶりに我が家の土間に立った。荷物運びの人は表の上がりかまちにリュックを下ろして腰を掛けた。
私は上着の物入れ(ポケット)からお金を出して「ご苦労さん」と言って渡した。その人(関本さん)は黙って受け取ると帰って行った。
 炊事場の方からアヤ子が出てきた。私の顔を見て黙って立っていた。しばらくしてから
 「父ちゃんが帰ってきたよ」 と、居間の方に向かって叫んだ。和子が出てきた。和子は私の顔に見覚えがあったらしく、
懐かしそうに近寄ってきた。続いて2人の子供が出てきたが、何か腑に落ちないような表情をして、
板戸の影から覗くような仕草をした。
 最近、この時のことを泰子に聞いたら、
 「何処のおじさんだろうか?今度のおじさんはなかなか戻らっさん」と思ったと言う。何しろ初対面のお父さんだから無理もない。
 双子と言えばスマトラのタケゴンに居た時のこと、ここでは加給品としてバナナが上がってくることがあった。
どうしたものか、その中に2本がくっついた双子のものが混じっていたが、
何故か誰もそれを取りたがらなかった。私が
 「これも1本に計算するのか?」と聞くと
 「そうだ」と言うので私が貰ったことが2,3度あった。
 そのうち家から手紙が届いた。その中に家族の写真が同封されていたが、双子の女の子供が写っていた。これを見て、中西達が
 「やはり、双子のバナナを食えば双子が生まれるんですかね」と言ったので
 「馬鹿な、しかし、そうかなあ」と皆で大笑いしたことがあった。
 チズエも出てきて、アヤ子と2人で
 「復員船が入ったことは新聞で読んだが、今度の船だと今日頃、帰って来るのではないか」とも思っていたと言った。
 上がりかまちに腰を下ろして、巻き脚絆を取り、軍靴を脱いで上がり、座敷の仏壇の父に
 「只今帰りました」と手を合わせた。 そして昼飯。 それが済んでから、居間でリュックを解いて、レーションを開けて缶詰やら菓子、ビスケットやらを取り出して子供にやった。
和子はすぐ懐いたが、2人はなかなかそばに寄ってきてくれなかった。
 そのうち私が帰ったという話で近所の人達が次々と訪ねて来て、苦労を労らってくれ、私は「留守中一家の者が大変お世話になりました」と、お礼を言って持って来た煙草を全部分けてやった。
 明くる日、庭に干してある洗濯物を見たら、みんな妙に黒ずんでいた。
 「何か黒いみたいだなあ」と言ったら、
 「何しろ石鹸の配給が少ないからこうなるんで、これでもよその家より白い方だから」と教えてくれた。
 「そうか」私はリュックの底を探して、作業隊での配給の洗濯石鹸やら、作業場で拾った化粧石鹸やらを取り出して渡した。それから洗濯物は目に見えて白くなっていった。こんなに石鹸に不自由しているのだったら、もっと手に入れてくれば良かったと思ったものだ。
 次は県の援護局に行き、軍歴表の提出。日本銀行でシンガポールで英軍の作業をしたときの賃金の支払いを受けた。
この金も小額ではあったが、当座は非常に為になった。

                        完

   これで「私の従軍記」は写し終えました。長い間、有難うございました。

故郷へ その1

2006-10-25 16:02:37 | Weblog
 その翌日9月22日朝、暗いうちに宿舎出発、団兵船を連ねて作ったような橋を渡って南風崎駅に向かう。
 途中、ブリキ缶を隣の者が捨てた。
 「せっかく持ってきたのじゃないか」 「どうも必要じゃないようだから」と言った。
 今度は誰かが布でくるんだ物を放ったので
 「何だ?」と聞くと 「岩塩だ」と言う。「せっかく持ってきたんだからもって行けよ」
 「重くてね。どうも必要なさそうだから」
 作業隊に居た時の日本の情報では、極度に物資不足で食糧、塩などは貴重品だと言うことだったので、作業に出た時なんかで苦労して手に入れたものだろうに、持って行けば家族が喜ぶのにと思った。
 復員列車は長い連結だったので私達はプラットホームからではなく、バラストの所から乗りこんだ。
 鳥栖の駅で4,5人下車
 「元気でやれよ、さよなら。」と窓から手を振る戦友達に、私は列車が見えなくなるまで直立不動 挙手の礼をして見送った。
 それから階段を下り、ガードをくぐって、水俣に帰る同年兵の千々岩 悟君と一緒に鹿児島本線下りの一般列車に乗り込んだ。
 途中見る沿線は戦災の跡をまざまざと残していた。列車の中は満員で私達は通路にリュックサックを下ろして立っていたら、
 「何処から?」
 「シンガポールから」
 「それはそれはご苦労様でした。」とねぎらってくれる人もいた。
 熊本で昼ごろになり、駅弁を売っていた。
 「買ってみようか」と千々岩君に言ったら、横に腰掛けていたおばさんが
 「美味くないですよ。自分の家に帰って、家のを食べなさいよ」と教えてくれた。 「そうですか、そんなものですか」と私はやめた。
 やがて有佐駅に着いた。
 「それでは、元気でな」「君も元気でな」 短い挨拶で私は下車した。
 リュックを背負って改札口を出た。駅前の広場は何故か満員の乗客と比較すると妙にひっそりとしていると感じた。そして、このリュックを背負って我が家まで帰る非常に惨めな敗残の自分の姿を想像して、急にいやになって、誰か運んでくれる者はいないかなあと、そばを通った人に
 「赤帽でもいませんか?」と聞いたら、
 「あの人に頼んだら」と駅前のマル通の店先の床ぎに腰掛けている体格のよさそうな男を教えてくれた。 「これを運んでくれないか?」と頼むと2つ返事で引き受けて「ヨッ、コラショ」と、いとも軽々と背負った。
 私が先に、その40歳過ぎだと思われる男は黙って後からついてきた。
 花岡(地名)の上の両側に家のないところで、野崎(地名)の宮崎末彦さんに出会った。
 「ただいま帰りました」と、挨拶したら
 「おう、斉藤君。帰ったか」と驚いたような顔で言われた。
 この日は天気が晴れていて、周囲が太陽の光に包まれて、黄金色に輝いている光景が脳の奥に甦ってくるのは何故だろうか。

復員事務

2006-10-24 18:33:38 | Weblog
 その翌日、身上報告で身体の異状の有無確認があったが
みんな一刻も早く帰郷したくて誰もが、「異常なし」と書いて集めに来た班長(下士官)に渡した。
 その次の日、事務局から 軍歴書4枚、作業隊での作業賃金明細書と、
旅費600円と、有佐駅までの乗車券1枚が支給されて
、明日出発の予定時間が発表された。
 さあ、舎内は俄然色めきたった。
 「俺、家に電報打ってくる」と飛び出して行った者が数名いたが、
 「とても長蛇の列で駄目だ。2,3日かかるそうだよ。俺が家についた後に届くようだよ」 「ヘエー、それでも電報かい」
 何しろ、みんなが押しかけたので、それを捌くにはそうなるらしい。私は最初から、そんなことだろうと思って行かなかったが、
それでも粘って打って来た者もいた。
 ある同年兵は郵便局から帰る途中、梨を売っていたので買ったら、1個200 円とられたとか言う。「梨を3個買えば旅費は終わりではないか」と、 物価相場の違いにみんな「これでは内地はえらいこっちゃ」とびっくりした。
 乗車券では樺太、沖縄出身者は困った
 又、長野出身者で下車駅の分からない者もいた。
 その夜だったか軍服の支給があった。陸軍の物の中に海軍の水兵服が1着だけあった。
 「斉藤、これはどうだ、お前、要らんか」と言われたが
 「いや、自分は陸軍のが良いです」と陸軍の竹製のボタンのついたカーキ色のを貰った。
 水兵服は松村軍曹が貰ったようだった。
 先の身体検査の結果、今度一緒に帰郷することが出来ない者が発表された。
 中隊で4,5人いたが、何か血液検査の結果がおかしいから、入院治療を要するとの事だった。

佐世保上陸

2006-10-23 22:03:05 | Weblog
 佐世保の相浦港着 翌日、佐世保の相浦港着。下船。自分の装具を持って宿舎まで500m位行軍。私は先に身体を痛めていたので、荷物を背負って歩けるかと心配していたが、結構そんなに重いとは感じなかった。勿論荷物は最小限度になるべく軽いようにしていたのでよかった。
 途中、日本の女性を見かけたが、から芋ばかり食っているとか、食糧は極度に不足して餓死者が続出しているという情報ばかり耳にしていた私達は、きっと痩せてヒョロヒョロして青ざめた顔色を想像していたのに、みんな色は白く、丸々と肥えて元気だったのは実に以外であった。
 だらだら坂を通り、畑の横を廻ったりして、元相浦海兵団兵舎あとの宿舎にたどり着いた。入り口で、全員、DDTの粉末を全身に降りかけられ、荷物も同じく真っ白になってしまった。そして部屋に入った。しばらくしてから全員、入浴。浴場は広かったが、DDTが溶けていたのか、消毒薬のためか濁っていた。そして身体検査、検便、血液を採られた。
 「明日は帰郷か?」と事務局の者に聞いたら、
 「いや、復員事務に2,3日かかるから、それが済んでからだ」とのこと。
 もうここまで来たから、又どこかの作業隊に移動なんて事は絶対無いだろうとみんな話し合った。

入港前

2006-10-22 11:25:55 | Weblog
 ある夜中、何かドタバタと騒ぎが起きた。目を覚まして、
 「何だ?」と聞くと「天草の灯が見えるそうだ見に行こう」と、5,6人駆けて行った。
 そうか、もうそんなに来たか。しかし、天草の灯を見たって、どうせ明日は九州が見えるじゃないか、面倒くさい、と私は又寝てしまった。
 翌日、九州の山々が見えた。みんな上陸は近いぞと不用品の整理を始めた。
 「不用品は1箇所に置いて下さい。内地の物資不足で困っている人の為に役立てますから、お願いします。」との連絡もあったが
 「あいつ等はあんな奇麗事を言うが、そんなにして集めた物資を横流しして荒儲けしているそうな」と言う者もいて、ボロ屑、食い物の残品などをドンドン舷側から海の中に放り込んだ。中にはまだ十分着られるシャツを放り込んだ者もいて、《惜しいことをするなあ》とその時は思った。複雑な思い出よさよならだったかも知れない。
 そのうち「汚い物は港に入る前に棄てて下さい。港内に棄てられますと、船の航行に邪魔になりますから」の通知もあった。いろいろな物がスクリューに巻きついて困るのだそうだ。

航海

2006-10-21 22:32:59 | Weblog
 その日と次の日は携帯食糧だったようだ。
 3日目の朝、「飯上げ」がかかったが、誰が上げに行くかで各船室、[もう軍隊はなくなったのだから]ということで、チョッとごたごたがあったが、結局
 「済まないが若い者が行ってくれよ」と言うことになって、若い者が受け取りに行ってくれた。
 飯は米は少しで、後は小麦を精白した赤黒いものでポロポロしていた。
 「こんなもの食えるか」と自分の携帯食糧で済ます者もいたが、私はありがたく頂いた。両方とも十分精白してなくて、かめばブツブツしていた。汁は粉末味噌をただお湯で溶かしたようなものであったが、私は3度3度残さず食べた。
 4,5日してから、「マンデー場が出来たから、希望者は使うように」という通達があったので私も行ってみた。甲板にシートが張ってあったが、浴びてみたら早速、喉が詰まった。扁桃腺が腫れて声が出なくなってしまった。シンガポールとは気温がやはり相当違うらしい。
 救護室に行くと衛生兵らしいのが
 「どうした?」と聞くが声が出ないので口を開けて、指で指したら
 「どれ、どれ、フーン」と言って赤黒いドロドロしたルゴールのついた綿棒を喉の奥まで突っ込んで塗ってくれた。よくしたもので翌日は良くなった。
 やがて、船は激しく揺れ始めた。台湾海峡だろうと言う。しかし、それから先には一向に進まず、同じような所ばかり走っているような気がした。みんな
 「どうした?」
 「船員のストライキだそうだ」 「何イ、ストライキだって、俺達は命懸けで戦ってきたのに…」憤慨したが船の速度は落ちていくばかり。
 「今、船員と交渉した。とにかく船を走らせねばどうにもならない。各自、煙草を3本づつ出してくれないか」と連絡が輸送官からあった。
 「馬鹿にしている。何がストライキだ」とブツブツ言いながら出し合った。するとやがて船は全速力で走り出した。 現金なものだ。
 又、部屋の狭いところは船倉に移動してもよいとの通達があり、グループで移動した班もあった。私はどんなところかと見に行ったら、1番下のバラストの細かい砂の上で、天井にはシートが張ってあった。
 ある時、スコールが来て、シートの窪んだ所に溜まり、それが片寄って兵隊の上にザーッと落ちた。大慌てで避難する騒ぎがあったが床は砂だからチョッと湿った程度だった。

出航

2006-10-20 19:00:26 | Weblog
 どれだけ時間が経ったか、やがて船は動き出した。みんな甲板に出てみた。船は島々の間を通って行く。誰かが
 「オイ、この船には敵さんが乗って指揮しとるぞ」
 「本当かい」 操舵室と思われる高いところには、英軍の将校らしきカーキ色の軍服を着たのが4,5人傲然と突っ立って中の1人が指示を下していた。
 「さあて、これじゃ何処に連れて行かれるか分からんぞ」
 「やはりそうか、とにかく着いてみないことには分からん」
 いつか内地帰還だといわれて喜んで船に乗り、連れて行かれたのは小さな島で、そこで重労働させられた部隊があったと聞かされたことがあるので、全員不安に包まれてしまった。
 「まあ、ここ迄来たからにはなるようにしかならない。度胸を据えろ」という具合で 「さらば思い出のシンガポールよ」 なんて感傷は誰にも湧いてこなかったことは事実だ。 しかし、やがて英軍将校達も居なくなった。
 「パイロットだったのだろう」と私は言ったが、それでも「そうかなあー」と半信半疑で誰も余り喋らなかった。
 この水路を通る帰還船には、何処からともなく島影から「万歳」の声が聞こえたり、又、うめくような音が聞こえてくると、まことしやかに言われていた。これは帰ろうと思っても帰ることが出来なかった幽冥(薄暗いあの世)を異にした、幾万の同胞たちの無念の叫びではなかろうかとも思われていた。今度の時は何もなかった。

乗船

2006-10-19 18:02:19 | Weblog
 9月4日、明日乗船ということで、とっておきの軍服をみんな取り出し、整理した。階級章は終戦当時のものをつけよとのことで、新しい階級章が配られ、私は1等兵をつけた。
 それと3食分のレーションとビスケット、缶詰などが配給された。みんなは
 「何処に連れて行かれるか分からないからなあ」」などと言いながら、リュックサックに詰め込んだ。
 9月5日、軍用トラックでジュロン出発。宿舎には次の梯団(帰還する兵隊の編成組織)が入ることになっているそうだ。ジョホール水道を通った。
 マレー半島から大きな水道管が2本、鉄道と並んで通っていた。
 トラックを降りて広場に集結した後、次々と乗船。タラップで軍階級、氏名が呼ばれて、1人1人英兵監視のもとで厳重にチェックされ、緊張したときであった。
 割り当てられた部屋で装具を下ろす。

ジュロンにて

2006-10-18 10:53:42 | Weblog
 ここは小高い丘の上にあって木造であった。前の人達が苦労をして作り、残してくれたものだそうだ。リババレーの幕舎よりずーっと良かった
 その翌日から又作業開始。作業所別の人員割り当てが発表されると、みんなが
 「又作業か」と一斉に言った。
 「いや、今日からのは軽作業だから」という説明に、それでも仕方がない。
 「処置ねーなアー」と不承不承、ぶつぶつ言いながら割り当てられた人数は出かけて行った。私も2回位作業に行ったように思うがたいてい留守番役をやった。
 ここには土門に幅70cm、厚さ3cm、長さ2m位の荒削りの木で作った食事台があった。荒削りのため、ささくれ立っていて、食器を置くには不潔だったので、私は留守番の間中に拾ってきた小刀みたいなので、片隅から削って平らにしていった。
 大分はかどって、もう少しで終わろうという時、大島兵長が
 「斉藤、これを使えよ」と言って小さな鉋(かんな)を取り出してきた。その鉋は幅5cm、長さ8cm位の本式の細工用の台が湾曲した、いわゆるしゃくり鉋というもので、多分支那人から失敬してきた物らしかった。それを見た渡辺兵長が
 「大島、何故それを早く出さなかったのか、斉藤があんなに苦労をして削っていたのに」と怒って言った。私はそれを使って綺麗に仕上げた。
 この頃だったか、作業の帰り道
 「内地に帰ったら何を1番食べたいか」と言う話が出て、私は
 「おはぎが食いたい」と言ったら、「おはぎって何だ?」
 「ぼたもちだ」と答えておいた。刺身とか鰻とかの希望があった。
 ある日、マンデー場で私は下駄を盗まれてしまった。兵舎監視にいたとき、ラワン材で下駄を1足作ってマンデーには重宝していたが、チョッと目を離した隙にやられてしまった。内地帰還の土産に持って帰るつもりだったのに残念だった。ここには帰還の為、各部隊が入り乱れていたので、元のリババレー作業隊に居た時のようにのんびりしていたのがいけなかった。

ジュロンへ

2006-10-17 18:59:01 | Weblog
 8月20日頃だったか、内地帰還準備のため、ジュロンキャンプに移動の命令が出た。(その少し前、空兵舎監視から帰っていた)《来るものが来た》の感じで、荷物の整理に取りかかった。しかし、何といってもさほど準備することもなかった。
 隣の幕舎の入り口にバナナが1本植わっていた。ここに来て作業に行った時、持ってきたのだそうで、もう2m半くらいになり、花が咲き、20cm近くの青い実が十数本、房になって付いていた。
 「こいつはどうするか?」と協議の結果、
 「バナナの芯のところは、うまいそうだ」との話が出て、結局切り倒されて、中の芯は、野菜のように切って食った。シャキシャキした味だったという。
 帰還の第1歩とされるフランス領ジュロンへの移動が隊員みんなの歓喜の涙をもって迎えられた様子はない。何故だろう?
 多分、今度は日本に帰れるだろうという気持ちが半分と、あんなことを言って他の作業隊に連れて行くのではないかという気持ちが半分であった。他の島の作業隊行きの噂が流れていたことも事実である。
 その当時、内地に関する情報は
 「日本は連合軍によって占領され、婦女子は強姦されてしまった」
 「焼夷弾によって家は焼かれ、帰っても住む家がない」 
 「食料は極度に不足し、1日に何万という人が餓死している」  等などの暗い話ばかりで、餓死者の写真まで出ていた。
 皆、「サテ、帰ってどうするか?」という不安が強くあった。作業にも慣れ、食料も食うだけは十分になって、まあ1日適当に働いていれば生きて行ける事は出来るんだからといった調子で、今まで余りにも不自由で、何から何まで命令と規則で縛られた軍隊生活を過して来たためと、南方ボケが加わって何か気の抜けた頭脳で、娑婆に出て、ましてや敗戦後の混乱しているであろう日本に帰って、どうするか。  早く帰りたい、一刻も早く帰らなければならぬが、帰っても確たる生活の当てがあるのか、こんな思いが胸を去来した。 その前に身上調査が行われ、内地に帰ってからの就職希望を聞かれ、皆、応召時の仕事に復職することを希望した。勿論私も産業組合の会計係を申し出た。
 聞けば私達の後1回で内地帰還は終わりとのことだった。
 幕舎(この幕舎は最初、来た時のは傷んで雨漏りするようになったので、取り替えた2回目のもので、手縫いらしく縫い目の粗い製品だった)をたたんで返納事務が済むと、各自それぞれの荷物をトラックに積んで、ジュロンに向かった。