「私の従軍記」 子供たちへ

平成元年父の誕生日に贈ってくれた本、応召されて帰還するまでの4年間の従軍記を今感謝を込めてブログに載せてみたいと思います

停戦協定 1

2006-08-08 18:53:50 | Weblog
 ある時(今思うと20年8月12,3日頃か)大島上等兵が
 「工兵隊の通信所から聞いたのだが、ここ2,3日中に何か重大な発表があるそうだ。どうも状況が悪いらしい」と、みんなに言った。そして2日位してから
 「これは秘密だが、どうやら日本は負けたらしい。工兵隊は引き上げると言っていた」と告げた。
 さあ、どうなるか。重苦しい空気で誰も口をきかなかった。
 元の兵舎に居たならば、各部隊、司令部の動きも察知できたかもしれないが、町を遠く離れた田んぼの中の一軒家ではどうする事もできない。総ては中隊本部からの指令を待つよりほかはない。
 それから1日位遅れて中隊本部から、
 「停戦協定成立、各部隊は充分警戒して、本部からの指令を待て」 の無線連絡がはいった。さあ、大変な事になったものだ。しかし、負けたのではなく、停戦協定だから、何とかなるだろう位に当時は考えていた。
 「どうやら、現地人達も知っているような空気だ」とも、大島上等兵は言う。
 「まさか、俺達を襲撃はしないだろう。しかし、今度の分隊長が現地人を荒く扱っていたからなあ。復讐されるかも知れんぞ」と、分隊全員がそう思った。
 その夜から、不寝番をつけて警戒に当たった。が夜になったら、何となく騒がしい。大勢集まって歌を歌っているようだ。アフリカの現地人が闘争する前に歌って踊る場面が想像される。分隊長の顔も緊張して青ざめてきた。
 司令部の方では続々と撤収しているらしいが、中隊本部からは1日、2日経っても何の連絡もなかった。
 38歩兵銃の手入れを念入りにする。5丁はあるが1丁に弾丸が5発づつ、手榴弾が1人に1個宛て、これは自決用とのことである。
 非常用の食糧の米が2叺(かます)と清酒が【美少年】だったか1升瓶が2本あったが、最後の決別用に、これを先ず処分してしまおうということになった。
 内地から持ってきた米は、心なしか流石、うまかった。久方ぶりの日本酒も旨かった。