「私の従軍記」 子供たちへ

平成元年父の誕生日に贈ってくれた本、応召されて帰還するまでの4年間の従軍記を今感謝を込めてブログに載せてみたいと思います

停戦協定 2

2006-08-09 10:31:19 | Weblog
 私は最後まで通信機を護り抜こうと覚悟して、何時でも交信できるように、整備に万全を期した。乾電池(これはジャワ製であった)も、ずっと前から補給が絶えてしまったので、組み合わさったブロックを壊して、良いのだけ取り出して(消耗したのや雑音が出るのがあった)繋ぎ合わせた。これは以前からやってはいたが、だんだん電圧が弱くなってきていた。
 1週間が過ぎ、2週間過ぎてから、ようやく本部から連絡
 「本部はセチレイを撤収して奥地へ移動する。よって今後、こちらに連絡しても応答はできない」  
 それでは、置いてけぼりを食うことになる。
 「分隊撤退用の自動車を廻してくれ」と打つと、
 「そちらまでは車両不足で行かれぬ。勝手に降りてこい」と、返答が来た。
 これには一同唖然とした。  仕方がない。分隊長が早速、工兵隊に貨物自動車の便乗を交渉に行ったが
 「うちの輸送で精一杯だから、よその兵隊までは手が廻らない」と、にべなく断わられてしまった。 それでは俺達はどうなるんだ、というあせりが大きく浮き上がった。
 「ビルンまで(約60km)歩いて下れば幾日かかるだろうか」
 「2日位あれば着くかなア」と話し合った。
 一方、現地人のでは毎夜、集会が持たれているようだった。
 その間、私達は何時でも引き払われるように準備を進めた。無線機は箱に、ベッドの綿を抜いて詰めて保護したし、38歩兵銃の菊の紋章は消すようにとのことで、ヤスリをかけたり、タガネで叩いたりしたが、とても硬くてどうにもならなかった。短剣は切先を研いで見たら、驚くほど切れることを知った。
 その前、司令部の在庫一掃か、葉巻煙草がドンゴロス袋、半分位配給された。吸った者が、辛いといって、結局、捨てようということになり、風呂釜の下に燃やしてしまった。葉巻煙草で風呂を沸かしたものは我々だけだろうと笑い合った。
1月程してから、下の道路に軍用トラックが停まり、将校が通信所に足早にやって来た。佐々木少尉だった。
 「お前達を連れに来た。早速出発の用意をせよ」と言う。地獄に仏とはこのことだ、みんな元気百倍、荷物の運び出しにかかった。
 その時、の顔見知りの子供(コーヒー豆を炒ってくれた子供)が鶏を1羽抱いて遊びに来た。鶏は
 「貴方達に料理して食べてもらおうと思って、持ってきたんだがどうしたのか?」と不審そうに聞くので
 「日本は負けた。それで、私達は他の所に移らなければならんのだ」
 「いや、日本は負けていない。現に貴方達はこうして居るではないか。もう一度ここで戦え」
 「これは、天皇陛下の命令だから仕方がない」
 「天皇陛下って、そんなに偉いのか?」
 「ああ、偉いとも。とても偉いんだ」
 「そうか」とようやく納得してもらったが、私達はこの子に煙草や何かを持てるだけ呉れて、
 「どうも、今までありがとう」と言って帰ってもらった。子供は土産と鶏を抱いてに戻って行った。