「私の従軍記」 子供たちへ

平成元年父の誕生日に贈ってくれた本、応召されて帰還するまでの4年間の従軍記を今感謝を込めてブログに載せてみたいと思います

無条件降伏 3(治安)

2006-08-13 15:35:54 | Weblog
 ここへ移転してから武装解除私達は丸腰になったが、その没収兵器を巡って、スマトラ独立軍との間に紛争があちこちで起こった。
 武器を持った現地人がの華僑を襲撃したし、日本軍も襲われる事態も発生して、治安は日一日と悪化していった。日本軍が主権を放棄したので、独立運動は一気に加速されたが、それを国家として纏(まと)めて行くには時間がかかり、勿論、それを弾圧する力はオランダ軍にはなかった。
 その過渡期の混乱の措置に困った国連は、日本軍に治安の維持を依頼して、解除した武器をそっくり返してきた。それでその中の軽機の試射を下の方でやったのだった。
 話では、武装解除のとき、日本軍が海に砲弾を捨てると、その後から、インドネシア軍が来て、すぐ引き上げて持って行くと言うことだった。それで直接インドネシア軍に渡して欲しいとの交渉があったそうだが、それは国連との約束で、出来ないのだそうだ。
 又、負けた日本軍ということで、力を得たインドネシア軍が、小馬鹿にした様子もあった。堪りかねた近衛師団では、戦車を1列に並べて、いわゆるローラー作戦をやって、家も椰子の木も平たくペシャンコにしてしまったそうだ。それからは独立軍も恐れて無謀な事はしなくなった。
 又、暴動が起きたから至急鎮圧に出動ということで、私も命令を受けて、武装して軍用貨車で出かけた。車は4輪駆動で山道をあちこち駆け廻ったが、目的地の手前の所で、潅木の陰に17,8歳位の男2人が見えたがすぐ隠れた。「それ居た」というので若い兵隊はすぐ安全装置を外し、運転台を銃架にして射撃しようとした。私は
 「撃つな、撃つなッ!」と叫んで止めたが、その兵隊は3,4発射撃した。
 しかし、青年は木の陰から元気に飛び出し、の方に逃げて行った。私は
 《命中しなくて良かった》と、人間が人間を撃つのを見たのは初めてだったので、命中しなくて本当に良かったと思った。
 に入ってみると、華僑の店がメチャ、クチャにやられていた。目ぼしい物は全部持ち去られていた。華僑は私達が行った所の山奥のにも必ず店を構えていた。この時、の青年が
 「日本軍はいけない」と言う。
 「どうしてだ」
 「我々はチャイナをやっつけているんだ。チャイナは日本の敵だろう」
 「チャイナは日本の敵には違いなかったが」
 「その敵をやっつけている我々を日本軍が攻撃してくるのはいけない事だ」
 「成る程ね。しかし、こんな事をするのは良くない。唯、私達は上からの命令で来たんだ」と、説明しても憤慨していた。私達はそれだけで引き上げた。
 2,3日してから、首謀者と言われる青年が捕まってきた。取調べに対してもそのように答えたという。その青年は衛兵所の隣に作った営倉に2日ばかりいたが釈放されて、笑いながら手を振って帰っていった。
 又、ある時、インドネシア独立軍と川を挟んで対峙したことがあった。私も命令を受けて、武装して軍用トラックで出動した。現地に着いて間もなく他の兵隊と交代して中隊に帰ったが、この時は山砲で砲撃して鎮圧したとのことであった。