「私の従軍記」 子供たちへ

平成元年父の誕生日に贈ってくれた本、応召されて帰還するまでの4年間の従軍記を今感謝を込めてブログに載せてみたいと思います

敵機飛来

2006-07-31 20:03:54 | Weblog
 タケゴンにも敵機が飛来した事があったが、空襲警報発令と同時にこちらは商売柄、全員外に飛び出して、敵機や如何にと目をサラのようにして、大空を探しまわったが、何も発見できなかった。現地人は
 「オランダ兵は日本の飛行機を見ると我先にと逃げ、タコ壷に隠れたが、それに比べたら実に勇敢だ」と言う。
 飛行機を発見して、その行動を見るのが私達の役目で、逃げ隠れはできない。何時頃だったか、重い飛行機の爆音が聞こえ始めた。タケゴンは盆地みたいな地勢なので、周囲の山々に反響するのか、重く不気味に聞こえる。きっとアメリカのB29か、エンジンの4つ位付いたヤツだろう。一晩中、ブンブン頭の上でやられたが、勿論、雲が厚くとうとう姿は見えず、一同寝ずの番だった。
 またある日、日の丸をつけた飛行機が猛スピードで低空飛行をしてきた。見たことのない型だったが、紫電界ではなかったかなどと話し合った。

カンポン(部落)

2006-07-30 12:09:39 | Weblog
 ある時、顔馴染みの男の子に
 「カンポン()を見に行って良いか?」と聞いたら、
 「プロンプァン(女)を探さなければ案内する」と言う。
 「女は絶対に探さない」と約束すると案内してくれた。の中の大きな通りの両側に、ニッパ椰子のアタップ(葉っぱ)で屋根を葺いた家が並んで建っていたが、どの家も私達が近づくと、戸を閉めてしまった。勿論、道路には誰もいない。しかし私達が通り過ぎてしまうと、ソーッと窓を開けて、女達が盗み見していた。怖いもの見たさは何処も同じようだ。
 現地人(アチェ族)の家といっても、上、中、下とさまざまであるが、普通、私達がよく見たのは、4m角か、4m×6mの長方形の型が多く、屋根は大抵、アタップ(葉っぱ)葺き、柱は丸柱が多く、1m位の感覚で地面に埋めてある、いわゆる掘っ立て小屋で、床は地面から2m位の高床で、丸太を並べたり、板を敷きつめたりしてあった。私達が床下に入ると、女達は「いやだアー」と叫んで何処かに逃げて行った。
 壁は板だったり、多くはアタップを下の方から次々と重ねて葺いたようにしていた。部屋の中には木製の粗末なベッドを1つか2つ置いたり、ハンモックが吊ってあったりして、家財道具といえる物は余りなかった。
 しかし、サルタン(郡長、昔の大酋長)の家は広い屋敷に、オランダ風の立派な物が3棟か4棟建っていた。タケゴンのサルタンはオランダの大学に留学したことのあるインテリで、我々日本の兵隊に対しては、第三者的で冷たかった。
 このサルタンは妻を3人か4人持っていた。よくしたもので、第一婦人の家に第二、第三婦人が同居していて、第一婦人と第二婦人が仲良く町へ連れだって出かけて行くのを見かけた。第4婦人はさすがに若くて、愛嬌のある色白の美人で、現在、川の向こうの住まいに居るといっていた。現地人に聞いたら、
 「妻を満足させていけば、何人持っても良い」との事だった。子供達もみんな仲良く遊んでいて、何のいさかいもないようだった。

通信所移転

2006-07-29 19:23:32 | Weblog
 司令部が移ってきてから
 「情報連隊の分隊は、他に移転するように」との指令を本部から受けたのか、監視硝の櫓を作るのに使う材木を切り出しに、分隊長が兵隊3名連れて出かけて行った。
 ある日、丸木舟で帰って来たので、マンデー場に迎えに行ったところ、桟橋に横付けしようとして、不用意にみんな同時に立ち上がった為か、アッという間に転覆した。全員ドブンと落ちてしまった。
 丸木舟には一隻一隻癖があって、一寸片寄るとひっくり返るのや、曲がって真っ直ぐ進もうとしないものなどがあって、その舟は安定が悪いやつだったかも知れない。
 サア大変と直ぐ手をとって引き上げてやったが、そのひっくり返る時の様子がとてもおかしかったので、勿論、声は立てなかったが少し笑った。すると、ずぶ濡れの分隊長が
 「人が危ない目にあっているのに、笑うとは何事だ!」と怒鳴りつけた。
 悪い事をしたとは思ったが、悪意で笑ったのではなく、私達が自転車で川に落ちる時、そばで誰か見ていると「アッ、アッ」と言いながらも、自分の不器用さの照れ隠しに、笑いながら落ちるし、見ていた者も「ヤッタ」と言う具合に、落ちる人の心に同情して、お愛想に声は立てないが笑いを合わせることがあるのと同じ心情だったが…。
 そのお返しか分からないが、ある日、「丸木舟を現地人に返しに行って来い」と言われて、2人でマンデー場から乗り込んだ。もう1人の兵隊が貸主の居所を知っていた。カイで漕いで湖の岸辺沿いに進んでいったが、このタウル湖は透明度が高く、深い深い水底の藻がゆらゆら揺れるのが見えて、気味が悪かった。大分、離れた所の岸に丸木舟を繋いで、カンポン()を通って帰ってきたが、家は戸が閉まっていて、ひとの子は1人も見かけなかった。

イスラム教

2006-07-26 23:11:53 | Weblog
 マンデー場から川を隔ててイスラム教の寺院があった。祈りの日には現地人は小ザッパリしたバジュ(上着)にサロンを巻き、頭に白か黒のソンコ帽を被った男達が集まって行った。
 やがてコーランを唱えるこえが朗々と流れ、それに唱和するのが聞こえた。ソンコ帽は、イスラム教の階級によって定められていた。イスラム教の教えによって信者は決して豚は食べなかった。どうしてだと聞いたら、
 「豚は獣の内で一番下等だ。親とも交わるような不潔な動物だ。その肉を食えば、自分の血が汚れる」と言った。豚は華僑やイスラム教意外の者は食べていたが、イスラム教徒山羊と鶏の肉を主に使っていた。
 また、イスラム教にはバアサがあって定められた期間は昼間は飲食物をとってはならないという掟を固く守っていた。コーヒー店で顔見知りの少年に
 「オイ、コーヒー飲めよ。おごるから」と言っても決して飲まなかったし、菓子も食わなかった。
 「それでは店の奥の誰も見ていない所で食えよ」とからかっても
 「駄目だ」と言った。勿論「子供がコーヒー飲めば馬鹿になる」という親の教えが効いているのも一因でもあった。
 それから、1日に5回だったかメッカの方を向き、地面に膝まづいてお祈りを捧げた。山の中の道を水牛に荷車を引かせて、仕事に行く途中でも車を停めて、やはりメッカの方向に膝まづいてお祈りをしていた。メッカは本当にどの方向かわかるのかと不思議に思ったりもした。

暗号書受領 3

2006-07-25 22:49:53 | Weblog
 この軽便鉄道みたいな汽車の燃料はゴムの木を10センチ角位、長さ30センチくらいの長さに割ったもので、駅ではこの薪を助手が炭車に、一生懸命積み込んでいた。薪だから余り速度は出ず、また煙突から火の粉が飛ぶのには閉口した。またゴム林の中を走る鉄道は、油椰子の赤い実を焚いて走っていたし、水が少なくなったと言って、途中で停めて助手がバケツを持って近くの小川から椰子の実のお椀で汲み、水タンクに入れたこともあった。
 汽車がビルン駅に近づくと、スマトラの中央を走る山脈(バリサン山脈)が見えた。その中腹の所に平らな山があり、その奥が標高1,200mのタケゴンの私達の分隊があるところだ。
 私はそこへ帰って行く。鳥の帰巣本能みたいなものだなあとその時は、複雑な妙な気分を味わったものだ。
 便乗したトラックはガソリンのドラムを積んでいた。一つのドラムは口金が少し緩んでいたのか、少しもれていた。それに腰掛けていた兵隊が尻が痛いと言う。ガソリンで皮膚の脂気がとれて、こすり、傷ができ、痛くなったのだろう。
 途中、道の片側に野火が盛んに燃えていた。車はガソリンを積んでいる。運転手は一寸迷ったようだが、口を真一文字に結んで、「ヨシッ」と覚悟を決めたのか、猛スピードで走り抜けた。熱気がサッと私達の顔を撫でた。
 「よかった」まかり間違えて引火でもしたら、忽ち火達磨になるところだった。
 この山道には野豚がいた。黒いのが十数頭道を横切るのに出会った。ひき殺してトン汁にしようと猛スピードで突きかけて見るが、なかなかブチ当たるのはいないと言うことだ。の豚はすばしこい。
 この山道の所々の一寸した平坦な所には、日本の野菜が生えていた。日本軍が種を撒いたのだと言うことだった。

暗号書受領 2

2006-07-23 13:00:18 | Weblog
 そして周りを見廻すと、全部、鉄帽を被っている。私だけ戦闘帽。これは見つかるとやられるなと直感したが、澄まして立っていた。やがて火も衰えたらしいので、又ベッドに入って眠った。その時、飛行機の無線を傍受した者の話し、
 「体当たりせよ、体当たりせよ」
 「敵は早い、敵は早い」地上からの体当たり命令にも、敵機になかなか追いつけない友軍の飛行機が目に見えるようだ。
 暗号書類を雑嚢にしっかり納めて、セチレイ駅に向かったが、なかなか分からぬから、現地人に
 「ステイションはどっちだ」と聞いたら、
 「あっちだ」と手で教えてくれた。そして乗車。その日はランサまで。夜は汽車は走らないと言う。ランサの兵站(へいたん)司令部へ行って夕食を貰い宿舎で寝る。
 翌朝、ここから小型の汽車に乗り替えて出発。ビルン駅下車。軍用トラックを捜して便乗、タケゴンに向かう。
 ここの汽車で無賃乗車をするのがいた。自分の家の近くになると、デッキに出ていて、先ず、荷物を放り投げる。そして自分が飛び降りる。土手に添ってコロコロと転がって行く。「大丈夫かな」と見ていると、やがてムックリ起き上がって、荷物の方に走っていく。死なずによかったと安堵したものだった。
 こっちでは、自動車も汽車も箱の中に入らなければ無料で、中に入れば料金を取られるのだそうで、車外に鈴なりに便乗しているのがよく見られた。

暗号書受領 1

2006-07-22 22:24:28 | Weblog
 ある日、分隊長から中隊本部に行って、[暗号書(乱数表)を受領して来い]と命ぜられて、1人でセチレイに公用外泊証を貰って出かけた。
 帯剣と雑嚢姿で工兵隊の車に便乗させてもらって、山を下り、ビルンから汽車に乗る。駅には大勢の現地人が食事をしながら、列車の到着を待っているのだが、何時何分に到着するのかと聞いても、「分からん」という返事。当てにして、当てにしないで、来た時が来たという具合だった。それを当てこんで駅の付近には、食べ物屋が屋台を並べていた。
 それでもとにかく、汽車に乗れたが、箱の中は現地人が一杯。座る場所が無いので立っている。こんな時、「こいつ、殺してやろうか」など話し合われても、現地語を知らないと、サッパリだ。全身、耳といった感じで乗って行く。
 この汽車は軽便鉄道を一寸大きくしたもので、機関車はゴムの木の薪を焚いて走る。火の粉が飛んできて、現地人の上着にとまり、ジリジリと焼けたりするので、この方も油断がならない。
 速度がだんだん緩んできて、そして駅でもない所に停まってしまった。
 「坂だから停まったんだ、男の人は降りて押してくれ」と言うので、男は老人、子供を残して全部降りて、ヨイショ、ヨイショと押す。私も降りて押し方だ。坂を上りつめると、下り坂。
 「早く乗れ」と言うので慌てて飛び乗ると、だんだん速度が速くなる。汽車の後押しは生まれて初めてだった。
 ランサに着く。この狭い鉄道はここまでで、メダンに行くには乗り換え。これからのは機関車も客車も日本の汽車と同じで懐かしかった。
 セチレイ駅で停まってくれない。しまったと思って客車のデッキに出て、
 「停まれ、停まれッ」と雑嚢を振りながら叫んだら、暫らく停まってくれた。スタコラサッサと下車して後も見ずに、列車と直角の道を走って行った。
 通りがかりの兵隊に道を尋ねてやっと中隊本部に辿りついた。本部でその旨を告げると、
 「お前の宿舎に行くには宮原隊長の宿舎の横を通らねばならぬのだから、隊長の姿が見える見えないにかかわらず、官等級氏名を言って通るのだぞ」と教えられた。
 何か曲がりくねった道を通って中隊長の宿舎の横に来て、家の中を見たが、誰も居そうに無かったが、それでも直立不動の姿勢で敬礼をして、声を張り上げ、
 「タケゴン分隊陸軍一等兵斉藤永松、通ります」とやったら、何処からか
 「ヨーシ、通れ」と答えてきた。クワバラ、クワバラ。
 宿舎は粗末な兵舎で、木のベッドで眠る。どの位眠ったか分からないが
 「非常呼集っ!」の叫び声、パッと起き上がって上着、軍袴、帯剣、巻き脚袢、戦闘帽で外に出る。石油タンクの向こうが、真っ赤に染まっている。製油所が爆撃を受けたらしい。こちらはどうする術もない。ただ黙って立ってみているだけだった。

兵士の死

2006-07-21 22:32:03 | Weblog
ある日、裏の一家が突然居なくなった。何処かに引っ越したんだろうと話し合ったが、外出した者が町で見かけたとも言っていた。
 そして、2,3日してコタラジャの司令部がここに移って来た。私達は裏の一家の移転も、このことと関係があるのだろうと想像した。それから町が、騒がしくなってきた。そして物価がどんどん上がった。
 今まで50銭位だったコーヒーが5円近くになって、2杯飲めば俸給がなくなることになり、バナナも高くなって一寸買えなくなってしまった。
 コタラジャから司令部が移動する事は、敵さんには情報が流れていたと見え、短波ラジオで
 「お前達がタケゴンの山の中に逃げても無駄だ。きっとそのうちに、やっつけてやるからな」と放送をしていたという話を後で聞いた。
 ある日、工兵隊か、司令部のものか知らないが、兵隊が1人死んだので、その火葬が明日あるから、その時間には全員黙祷をするようにとの通達があった。
 その日、私は監視硝当番だったが、その場所から5,6百メートル位離れた高い所に立っていた。午後になってトラックや兵隊が集まって来て、丘の上に材木がイケタ状に2メートル位の高さに積み重ねられた。
 4時頃だったか、ラッパの吹奏と共に火がつけられた。材木には石油か何か、かけてあったと見えて赤い炎が燃え上がった私はジーッと頭を垂れた。
 ラッパの音は周りの山々に微かに物悲しくこだまして吸い込まれるように消えていった。やがて夕日は辺りを赤々と染めて沈み、火勢も衰えて周りをほの明るくしていたが、やがて消えて、黒闇に包まれていった。その日は私達の心は重苦しかった。
 思えば遠く祖国を離れて、異郷の地で果てるとは、戦場にある身としては覚悟の上ではあるが、戦友に見とられ、丁重に荼毘に付されるのは以って冥すべではなかろうか。

学芸会

2006-07-20 22:55:37 | Weblog
何時か若い女の子の隣の席で見ていたら、誰か私の手を握った。よく見ると、男の手で、次隣の青年が女の子の手と思って、握ったのだった。
 ここには、現地人の学校華僑の学校があった。現地人の学校は屋根は椰子の葉(アタップ)で葺いた粗末なもので、教室の外には、学校に行かせて貰えない子供が、パンツ一枚、裸足で背伸びして中を覗いていた。
 華僑の学校は、日本の小学校みたいな校舎で、白いサッパリした服装をした7、8歳から15,6歳までの子供が運動場に20人位整列していたのを見たことがある。
 どちらの学校も日本でいう学芸会があった。現地人の学校のに招待されたので、分隊長と3人位で出かけた。場所は映画館で午後からあったようだ。客席には父兄がこざっぱりした服装で腰掛け、満席だった。
 定刻になると、日本の学芸会のように、主催者の挨拶、その他があって、発表会となる。音楽の伴奏をやる者のボックスは舞台の直ぐ下にあって、そこには父兄たちが10名位、各々楽器を手にして、控えていた。
 その時が来ると、サッと立ち上がり、指揮者と見える第一バイオリン奏者の弓が、頭上から振り下ろされるのを合図に、実に見事に伴奏をやった。ボックスを見ると、病院の助手さん、警察の署長さん、会社の事務員さんと、顔見知りの人達が一生懸命やっていた。子供達も一装用のものを着て、平常とはうって変わった華やかさで、喜喜溌剌としたものであった。
 華僑の学校のにも分隊長と見に行った。その日には、白い洋服を着た中国人がバイオリンなどを片手に会場に急いでいだ。ここも現地人のと同じ形で開演されたのだが、中国人の踊りを見ていると、日本人の子供と同じような顔ばかりで、何となく郷愁に誘われた。又、15,6歳の女の子は現地人には見られぬ美しさがあった。

映画と南京虫

2006-07-19 10:10:37 | Weblog
 ある時、非番で通信所の土台の所を見ていたら、黒蟻の行列が見つかった。蟻は金物を嫌うと聞いていたので、そこらから小さい2ミリ目位の金網を拾ってきて、通路をふさいでみたら、蟻は一寸戸惑った様子だったが、網の目をくぐって又行列を続けた。
 しばらくしたら、とても大きな蟻をみんなで担いできた。《女王蟻だな》と見ていると、網の目で通れなくなり、大騒ぎになった。そこで私がその蟻を胴体の付け根から、チョン切って2つにしてやった。そして金網を除けると、蟻達は頭の部分と胴の部分を何事も無かったように、大勢で運んでいった。
 町の映画館によく行った。
 「ハワイ、マレー沖海戦」「あの旗を撃て」「田園交響曲」とか日本物がかかった。戦争物では敵さんがやられるところが出てくると、いっぱいの現地人が喝采をした。田園交響曲では、爆笑の渦が湧いた。
 又、インド製作か、「アラビアンナイト物語」があったし、架橋製作のものもあった。架橋物は、親達が決めた金持ちの馬鹿息子を嫌った胡娘が、労働に励む、貧乏ではあるが自分の好きな青年と、幾多の困難を乗り越えて、結ばれるという筋が殆どであった。そんな外国映画は3分の2位見て、暫らく筋が分かりかけ、終る頃、ああそうかという具合だった。トーキーで支那語、インドネシア語、インド語だったが、結構面白かった。
 しかし、余り度々見に行くので工兵隊から「余り夜の外出が多すぎる」と注意を受けたとか、分隊長は言っていた。(変わる度、見に行っていた)
 分隊長は南京虫に皮膚が弱かった。ある時、映画から帰って来ると、しきりに「かゆい、かゆい」と裸になって掻きながら言った。背中は食われて麻疹のように腫れ上がっていたので、メンソレタームみたいなのを塗った。
 映画館の椅子や壁には南京虫が無数にいた。椅子に掛ける時には、背もたれにはなるべく背をつけないようにしたし、又、それより立ち見がよいと言うので、何処にも接触するところが無いようにして立っていた。立って見ていると、時折、天井からパラ、パラとあちこちに落ちていた。随分注意していたが、それでもやはりやられた。噛まれた所は赤く小さな点が山型に3箇所ついていたが、2,3日すると消えた。