脳辺雑記帖 (Nohhen-zahts)

脳病と心筋梗塞を患っての独り暮し、Rondo-Nth の生活・世相雑記。気まぐれ更新ですが、気長にお付合い下さい。

人間とは喜劇な受難である。

2008年03月15日 12時56分08秒 | コギト
昔読んだサルトルの言葉に「人間とは無益な受難である」
というのがあった。表題はそれのもじりである。

車谷長吉氏の『物狂ほしけれ』(平凡社)の「徒然草独言」を読んでた。
「名利につかはれて、閑かなる暇なく、一生を苦しむるこそ、愚かなれ。」
高校の教科書で目にしたような、こんな言葉に今また触れてみた。

今のわが身を顧みると、欲しようとも、何の「名」も「利」も、
求めるべく身分ではないので、自然、名利への欲求がないことに気づく。
確かに、「閑かなる暇」ばかりを、有難くも過ごしている気がする。

兼好法師は、自ら進んで世捨人となり、生涯独身だったそうであるが、
私は、自分から世を捨てられるような格好の良い人間ではない。
世の中の方が、私という精神障害者を捨てた方の、「世捨てられ人」である。
(但し、半分以上は、私の方から、世を捨てたい思いはあるが。)

そんな私が、生きるために再度、世に容れられようと、
自分を奮い立てて、あくせくとパソコンなどを勉強している。
これは存在の喜劇だと思うのである。道化だと言ってもいい。
人の世を生きるには、喜劇や道化を覚悟せねばならないのである。

例えば、かのカラマーゾフ兄弟の父親、フョードル・カラマーゾフは、
そんな人間存在の戯画である。
(ここで、ドストエフスキーの本名が
「フョードル」であることには、特別注意すべきである。)
ドストエフスキーは、人間存在の真実の名において、おそらくは
彼自身の父親に似せて、フョードルを執拗に描写せざるを得なかったのだ。

今、言いたいことは、智慧ある者なら、
ソクラテスのように毒杯をあおれ、ということである。

中身は空疎なのに、自惚ればかりの自尊心が傷ついたくらいで、
「癒し」だの「トラウマ」だの、騒ぎ過ぎである。
この世の喜劇を笑え、時には、おのれに道化を覚悟せよ。
むしろ、そんな方向にこそ、救いがある気がするのである。


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