ドストエフスキーの『カラマーゾフの兄弟』(亀山訳、光文社文庫)をほぼ読み終えた。
この長編作品には、他の訳で過去二度挑戦したが、三分の一位読んで挫折していた。
世界文学としても最高峰の名作とされているが、何故かあまり感動がない。
大学生の頃、初めて『悪霊』(新潮文庫)を読んだとき、
この作家は大天才だと、驚いた思い出がある。
ポリフォニー(多声性)というらしいが、登場人物の一人一人が、
作家の手から離れた独自の生命を生きて、考え動き回っているように感じられ、
とても一人の人間の脳が造形できる小説とは思えない代物に感じられたものだ。
あくまで私的感想であるが、亀山訳にはポリフォニーが抜けてしまってはいまいか。
それは氏が、あまりにドストエフスキーに精通し過ぎており、作品に慣れ切って
しまっているせいなのではないか、とそんな気がしている。
埃を被った古典文学の、その門を現代の読者に新たに開いた功績は認めるし、
訳文の流れも良く、読み易いのだが、残念ながら私にはピンと来なかった。
私の歳のせい、感受性の鈍磨、集中力の低下などのせいかもしれない。
決して、亀山訳を貶めるつもりは少しもない。
今、埴谷雄高のことを思い出している。
埴谷はかつて「不合理ゆえに、我信ず」と語った。
世には様々な偽装や詐欺、不正がはびこっている。
若者も派遣等の非正規社員でしか働けないとか、
正社員と同一労働なのに低賃金など、
理不尽で不合理な世の中に成り下がっている。
私の若い頃に比べても、確実に世知辛いものに成り果てている。
それでも、私の心の寒寒とした闇夜に、埴谷の前述の言葉が、
チロチロと赤い炎を立て、小さな灯火のように燃えている。
‥‥「不合理ゆえに、我信ず」
泣いても叫んでも、世の中は「かくありき」なのである。
では、何が信じられるのか?
「我」を信じるのであろうか?
「我」、自分をも、信の対象としてあるのではない。
現実の「不合理」を眼の前にして、かくある世の中を見据え、
「我信ず」という表白を、虚空に刻み込むことなのである。
何やら解ったふうなことを言ってるようで恥ずかしいが、
とにかくこの言葉は、私の心の糧である。
この長編作品には、他の訳で過去二度挑戦したが、三分の一位読んで挫折していた。
世界文学としても最高峰の名作とされているが、何故かあまり感動がない。
大学生の頃、初めて『悪霊』(新潮文庫)を読んだとき、
この作家は大天才だと、驚いた思い出がある。
ポリフォニー(多声性)というらしいが、登場人物の一人一人が、
作家の手から離れた独自の生命を生きて、考え動き回っているように感じられ、
とても一人の人間の脳が造形できる小説とは思えない代物に感じられたものだ。
あくまで私的感想であるが、亀山訳にはポリフォニーが抜けてしまってはいまいか。
それは氏が、あまりにドストエフスキーに精通し過ぎており、作品に慣れ切って
しまっているせいなのではないか、とそんな気がしている。
埃を被った古典文学の、その門を現代の読者に新たに開いた功績は認めるし、
訳文の流れも良く、読み易いのだが、残念ながら私にはピンと来なかった。
私の歳のせい、感受性の鈍磨、集中力の低下などのせいかもしれない。
決して、亀山訳を貶めるつもりは少しもない。
今、埴谷雄高のことを思い出している。
埴谷はかつて「不合理ゆえに、我信ず」と語った。
世には様々な偽装や詐欺、不正がはびこっている。
若者も派遣等の非正規社員でしか働けないとか、
正社員と同一労働なのに低賃金など、
理不尽で不合理な世の中に成り下がっている。
私の若い頃に比べても、確実に世知辛いものに成り果てている。
それでも、私の心の寒寒とした闇夜に、埴谷の前述の言葉が、
チロチロと赤い炎を立て、小さな灯火のように燃えている。
‥‥「不合理ゆえに、我信ず」
泣いても叫んでも、世の中は「かくありき」なのである。
では、何が信じられるのか?
「我」を信じるのであろうか?
「我」、自分をも、信の対象としてあるのではない。
現実の「不合理」を眼の前にして、かくある世の中を見据え、
「我信ず」という表白を、虚空に刻み込むことなのである。
何やら解ったふうなことを言ってるようで恥ずかしいが、
とにかくこの言葉は、私の心の糧である。