脳辺雑記帖 (Nohhen-zahts)

脳病と心筋梗塞を患っての独り暮し、Rondo-Nth の生活・世相雑記。気まぐれ更新ですが、気長にお付合い下さい。

鴎外試論(5)

2007年10月17日 10時47分39秒 | 読書・鑑賞雑感
鴎外という人は、
天空を飛翔する鷹のような眼を持ちながらも、
己が地上の身の丈を、着実に生き抜いた人物である。

鴎外は壮語を以って吐き出した力で、
自身を高みに押し上げることがない。
「世界」に対して背後に身を置き、
それへと静かに肩をたたくような、隔てた親しさを持つ。

彼の見え過ぎる眼は、超越的でないことによる。
眼は、現実を縦に眺めるより、横に連なる流れとして受け止めている。
この流れに覚醒され続け、意識は曇らない明晰を持続している。
鴎外の自称する「傍観者」とは、
このような意識の明澄な清冽を持している者のことである。


鴎外は『阿部一族』にて、
命という代価を支払って「殉死」という商品を購う武家社会に、
「規則に添って進展するからくり」を見出していると記したが、
有名な『雁』という作品(多義的読解が可能だが)には、
財貨の価値増殖の内に人生の展開が起こる様が描かれている。

それを象徴する人物が『雁』の末造である。
末造は学校の小使いに過ぎなかったが、
金貸し業に乗り出し、お玉という妾を囲う程に成功する。

末造にとって金銭こそ現実の力であった。
彼はこの魔力に飲まれて、鼻先に欲望をぶら下げ、
金利の貨幣経済のシステムを回転する。

末造より興味深いのは、お玉の存在感である。
「妾」とは、金持ちのサブカルチャーのようなものである。
この関係は、商品と広告の関係にも似ている。
広告は商品を価値付け、売れ行きを左右するが、
広告が商品とは別個の、自立した生命をもつことがある。

『雁』のお玉の生き様にも、
サブ・システムがメイン・システムに、巧みに絡みつき篭絡し、
システム総体を反転させていくような「予感」が読後に残る。

彼の時代にあって、家が貧しく妾に身をやつした女性が
その身一つで生きるには、したたかで逞しく変貌する以外にない。
主の末造を出し抜いて、お玉が自立する行く末が思い遣られる。

同じ自立でも「男」を描いた場合、例えば『青年』の主人公は、
年上の未亡人に寄せたほのかな情愛が裏切られたとき、
その寂しさを「自己を愛する心が傷つけられた不平」に過ぎぬ、
そのような切断する意志で、単独に挫折を軽々と乗り越えていく。

以下は、筆者の勝手な想像であるが、
女性の自立が困難な時代状況の制約とも絡んでいるが、
鴎外は、お玉のような妾の女性に限らず、
女性一般に、女性は「女」を男に売り渡すことで、
商取引をするように生き抜くものとでもいうような、
女性観を一部に持っていたのではなかろうか? (続)

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