脳辺雑記帖 (Nohhen-zahts)

脳病と心筋梗塞を患っての独り暮し、Rondo-Nth の生活・世相雑記。気まぐれ更新ですが、気長にお付合い下さい。

タオ(5)

2008年05月02日 11時44分35秒 | 言葉の雫

営(まよ)える魄(はく)を載(やす)んじ、
一(いつ)を抱いて、
能(よ)く離れしむる無からんか。
気を専(もっぱ)らにし柔(じゅう)を致して、
能く嬰児(えいじ)のごとくならんか。
(『老子』(中公文庫)道徳経第十章から引用)


私は、名辞以前の一(いつ)、一つの空虚を抱いて、
生まれたての嬰児のように丸くなり、
やわらかい呼吸をしながら、生きていきたい。

私とは、私の抱く<空虚>である。
まるでドーナッツの穴みたいな<もの>である。
ドーナッツがなければ、ドーナッツの穴のみ単独では存在し得ない。
私が存在するから、私の<空虚>も存在し、
私の死とともに、<それ>は誰にも気づかれぬまま消失する。

私は、この「私」を表出するが、私の<空虚>を以って、
この世界を無為自然と過ぎていきたい。

ここで無為とは、不為ではなく、
為すことの自然な営みの繰り返しである。
風が吹き、浜に波が寄せては引くような、
自然の事象のようなものである。

私とは、私の<空虚>である。
空虚である以上、真でも善でも美でもない。
空虚である以上、知でも情でも意でもない。
それは何ものでもない。

私とは、私の<空虚>である。
<永遠>はすぐそばにある。



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