脳辺雑記帖 (Nohhen-zahts)

脳病と心筋梗塞を患っての独り暮し、Rondo-Nth の生活・世相雑記。気まぐれ更新ですが、気長にお付合い下さい。

心の歳月

2008年04月26日 12時12分11秒 | 近況
先刻、父は旅行カバンと見舞いの品を持って、帰郷の途についた。
玄関で、高齢ながらもがっしりとした父の後姿を認め、
一人で行かせても十分大丈夫だなと思い、私は安堵した。
気をつけて、行ってらっしゃい、と声をかけると、
父は、ウチの方は頼んだよ、と言って家を後にした。

父の古里は、東京から行くと名古屋の手前当たりにある。
農家の末っ子で、東京の下町に婿入りして50年になる。
故・義父とはソリが合わず、嫌な思いは随分したのだろう。

私の方は、子供の頃から父にはなつかない人間であった。
いや、母にも余りなつかず、祖母になついていたのだろう。
私は、特に父には強い嫌悪感を持っていたものだ。
その一端は、前回の投稿記事からも知れようと思う。

でも、歳月は人を変えるものである。
歳をとると、人は「許すこと」を学び始めるのである。
私が精神病を発症した当たりから、父はどこか私に対して、
基本的な態度を少しずつ変えているようにも感じられる。
相変わらずぶっきらぼうな性格で、私を悪くも言うが、
昔に見られたようなギスギス感やガミガミが減り、
心が静かになってきて、角が取れ丸みが出てきた感じがある。

父も歳をとったのだ。そして私も歳をとった。
いつまでも互いが若い時分の至らなさを言い立てるべきではない。
とは言え、人の心とは、自分の心も含めて、厄介なものなのである。

私は折に触れて、前回のような文章を書くであろう。
近年、心理カウンセリングの世界では、「リトリート」という技法
が注目されているそうである。
自分の過去の再著述化、再物語化というような作業のことである。

私の理解が間違っているかも知れないが、
リトリートとは、自分の辛かった過去の体験等と、再度対面しつつ、
それを<死者>として扱い、葬り去り、喪に服す作業であると思われる。
新たに語り尽くすことで、「私」の葬式と服喪を、
新たな私の再生、私の新生のために、執り行う心理作業、心理技法のこと 
ではなかろうか、と私には思われている。

このようなリトリートは、人は自然と無意識に行っているとも思う。
私はこのブログに、時折、過去の私や父・母のことなどを記すが、
そうすることで、心に<死者>を会葬し、喪に服しているのでもあろう。

それは私が、自らを心のふるさとに、平安と安息のときに還す試みであり、
「許し」と「再生」への祈りであり、魂の自然な営みなのである。


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1 コメント

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補足 (ユメノ・ロンド)
2008-04-30 09:38:14
この投稿で、あるカウンセリング技法を「リトリート」と表現しているのですが、これは、「リプロセス・リトリート」のことですが、このとき私の念頭にあった技法は、
一般的には「ナラティヴ・セラピー」と呼ばれているもののことで、再著述化(リ・オーサーライジング)について言及したつもりです。
 私は、この方面には素人ですが、心理セラピーとは本質的に、クライアントの心に残る、傷を負った「私」の鎮魂であり、それの会葬でありという「喪」の作業を通しての、「再生」のことではないか、と思ったまでです。
私の表現に少し混乱があるように思えたので、一応補足を記しておきます。
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