脳辺雑記帖 (Nohhen-zahts)

脳病と心筋梗塞を患っての独り暮し、Rondo-Nth の生活・世相雑記。気まぐれ更新ですが、気長にお付合い下さい。

「所在なさ」について

2008年07月21日 12時53分42秒 | コギト
近年、動機や背景が不可解な殺人事件が増えている印象がある。
10代の息子や娘が親を殺す、兄が妹を殺す、妻が夫を殺すなどなど。
また秋葉原の事件に限らず、無差別な殺傷事件も目立つ気がする。

どの事件の加害者も、人を殺傷することへの実感が乏しいように見える。
では加害者は冷酷で残忍な人間性の持ち主かと言えば、そうでもなさそう。
医学鑑定ならば、解離性障害が指摘されようが、状態像の摘示に過ぎない。

私は、この種の犯行者に共通する心性は、自分の「所在のなさ」に思える。

ひと昔前に、浜崎あゆみの「A song for XX」という曲を聴いたとき、
軽い衝撃と共感を感じた。「居場所がなかった。見つからなかった」と
哀切に歌い上げ、「ひとりきりで生きていく」と宣言するような曲だった。

「所在のなさ」と言えば、既に明治の頃、夏目漱石は短編中に記している。

「およそ世の中に何が苦しいといって所在のないほどの苦しみはない。
 意識の内容に変化のないほどの苦しみはない。
 使える身体は目に見えぬ縄で縛られて動きのとれぬほどの苦しみはない。
 
 生きるというは活動しているという事であるに、
 生きながらこの活動を抑えらるるのは生という意味を奪われたると同じ事
 で、その奪われたを自覚するだけが死よりも一層の苦痛である。」
                   (夏目漱石『倫敦塔』岩波文庫より引用)


イギリスの「倫敦塔」は囚人の幽閉塔、古い刑務所のような建築物であり、
そこを訪れた漱石の感慨や表白と、現代の若い女性歌手の歌詞とでは
意味合いが違うかもしれない。実際その通りであろう。

漱石の作品には、働きもせず人生に立ち止まっている高等遊民が登場する。
高等遊民は、漱石自身の似姿でもあったのだろうと、私は思っている。
ロンドン塔の内部の、囚人を幽閉し続けた暗い壁を目の前にした漱石は、
狭い檻に閉じ込められ、生涯を閉じていった人々の連綿と続く苦悶に、
我が身と心を重ね、何か共通の思いを深めているかの様である。

浜崎あゆみを夏目漱石と重ねて論じようという意図でも試みでもない。

時代が如何ように変化しても、「所在のなさ」或いは「居場所のなさ」
という感覚が、その内実は時代とともに変化しようとも、
人間存在にとって、この欠如感覚への問いは、本質的、実存的問題として
個人、社会、国家がその問いを引き受けていかねばならないと思われる。

ここでいう「所在」や「居場所」は、モノやカネ、学歴や肩書き等、
何らかの社会的成功で得られるとは限らない何か、なのである。
人間とは「意味」の存在体である。

答えの無い問いを発するのは「意味の病」であり、人間の業であろう。
業は個人の側にあるよりも、個人とは、業に囲まれて生きているのである。
もっとカネを稼げ、もっと美人になれたら、もっと良い家に住みたい等々、

資本制的な、他人の欲望の反射が、自己の鏡像となり、
人生の「意味」が資本制度的に、自動化され内面化されて、
自分に「居場所」感をもたせられた処に、一生の展開が予定されていく。
この予定には何の保証もない。人生の「意味」が餌付けされただけである。

現代人には、居場所がないのではない。
居場所が、資本制度的に仕組まれ過ぎているのである。
現代人には、この仕組みの閉塞性や欺瞞は既に見え透いている。

そこから意識的に外れてしまい、社会との歯車が噛み合わなくなると、
人は自身に「居場所のなさ」「所在なさ」を排除された苦痛として味わう。
犯罪には走らずとも、そんな感覚を共有する若者は多いのではなかろうか。


ここまで記してはみましたが、考えたいことがまだまだ長いので、
まとまりが悪いですが、この辺で、今日は打ち止めにさせて貰います。







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