いいたい放題

 右でも左でもない風来坊が、社会・経済・政治などの問題について、
好き勝手に、支離滅裂に、傍若無人に書き込むブログ

人権擁護法の問題点

2006-09-20 | Weblog

 人権擁護法の問題点というと、ほとんどの人は人権擁護委員の国籍条項だろうと考えるのではないだろうか。しかし、日本の国内において、外国籍の人々に対して人権無視が行われている以上、他国籍の人々が人権を主張出来る時と場を作らない限り、外国人に対する人権無視はなくならない。
 聞くところのよると、入管法で、長期滞在の外国人に対して、また指紋押捺をしようと考えはじめている人がいるという。官庁でもそうした意見が出はじめているという。実に愚かだ。
 人権は、グローバルな時と場で守られねばならない、正に人間の崇高な理念である。自国民だけを絶対化するような意識が残っていては、人権など守れるはずもない。事実、日本の中でも公然と差別が行われている。それも、人々の目に触れない形でだ。そして、それに気が付いている進歩的知識人も口を噤んでしまっている。人権が守られるということは、自由主義・民主主義国家においては、一番基本的な事柄であるのに、明らかな差別を受けているのはどうしてだろう。

 「寝た子を起こすな」
 冗談じゃない。寝てなんかいない。いまでもしっかり起きている。
 公官庁の職員もそれを知っていても、見て見ぬふりだ。だから、いつまで経っても問題は解決しないし、内容が変質しながら若い世代に語り伝えられていく。在日の人々や被差別に対する誤解と偏見は、「2ちゃんねる」にはゴロゴロしている。

 人権擁護法の問題点は、そこにある。
 人権擁護委員は誰がなるのだろう。
 地方では、地元の「学識経験者」「元公官庁職員つまり退職者」「元教員」そんな人々が、一方的に任命されるだろう。そこには、「余所者」が入っていく余地はない。当然のこととして本籍地も問題になるだろう。本籍地がどこかということが人権擁護委員の任命に影響する可能性は十分にある。
 イスラム系の外国人に対する偏見、中国や韓国・北朝鮮の人々に対する偏見、あるいは南米諸国の人々に対する偏見。しかし、ヨーロッパやアメリカの白人たちに対しては、そうした偏見は見られない。こうしたことが起こってきた原因を知らない「学識経験者」に人権擁護ということが判るだろうか。「元大学教授」というだけで、人権擁護委員になったとしたら、理系の研究者が人権擁護の問題を真剣に考えなければならなくなることもあるだろう。「元公官庁職員つまり退職者」が、人権の問題を的確に、そして客観的に考えられるだろうか。ことに、公官庁の中で地位の高かった人々は、現在の人権無視の中で仕事をしてきた人々の可能性もある。「元教員」に至っては問題外だ。イジメによる青少年の自殺が起こっているにもかかわらず、「イジメがあったことを知らなかった」と公言して憚らない校長や教師に、人権無視の現実を裁けるだろうか。

 日本人の多くは、長期滞在者に対する指紋押捺の問題性を理解していない。それは、人権は国家もそれを守らなければならないということを理解していないからではないかと思われる。「国のため」であれば、個人の人権は無視されても構わないという考え方が、いまもって日本に蔓延しているように思えるのは、筆者だけだろうか。
 「オウム真理教(現在は「アーレフ」)は、何故いまだに宗教法人なのか」という疑問を抱いている人はどれくらいいるだろう。「宗教法人というのは国が認めた宗教であるということを意味する」と考えている人がどれくらいいるだろう。

  宗教法人法
   第1条 この法律は、宗教団体が、礼拝の施設その他の財産を所有し、
      これを維持運用し、その他その目的達成のための業務及び事業
      を運営することに資するため、宗教団体に法律上の能力を与え
      ることを目的とする。
       憲法で保障された信教の自由は、すべての国政において尊重
      されなければならない。従つて、この法律のいかなる規定も、
      個人、集団又は団体が、その保障された自由に基いて、教義を
      ひろめ、儀式行事を行い、その他宗教上の行為を行うことを制
      限するものと解釈してはならない。

 この内容は、高校においてさえ教えられることはない。
 本来であれば、義務教育期間中に「道徳」の時間で教えられるべき事柄であろう。「道徳」という言葉を、戦前までの儒教的なものとして考えてしまっているから、小中学校ではほとんど何も教えられていないという現実が今の日本にあるのだろう。

 一つの社会が人権を守るということは、当然そこにはある種のリスクが伴う。
 アメリカでは、性犯罪者のリストを公開することによって、「市民」の安全を守ろうとしている。しかし、そこで問題になるのは、「性犯罪者の再犯を防ぐため」に、真剣に改心し、真剣に罪を償おうとしている人々の人権を無視してしまうということである。つまり、人数に関係なく、こうした真剣に改心し、真剣に罪を償おうとしている人々の人権を守るために、社会は再犯の危険性というリスクを背負わなければならないのである。
 日本のように、警察や検察が様々な個人情報を入手し、保管している?国では、人権などということはほど遠いのかもしれない。多くの人々がそれを「良し」としている「空気」もある。警察や検察には、インターネット上に流れる情報をすべて監視したいと考えている人もいるようだ。「犯罪の未然の防止」という名目の下に人権が踏みにじられていく。

 かつて、短銃による傷害事件が発生した時、夜間に警察の制服を着た人によって強制的に車を停止させられたことがある。筆者の車のナンバーを書き写すと、すぐに解放された。その間、何の説明もなかった。
 あの日、あの時刻に、あの場所を、筆者が車で走行していたことを、筆者の許可なく警察は記録している。(筆者は、それがその事件によるものであることを既に承知していたが、警察の制服を着た人物とは一切会話をしていない)
 人権擁護委員には、国家公安委員会もしくは法務省及びその関連官庁の退職者はなることが出来ない、という条文を付加した方がいいように思える。教員も同じことだ。小学校から高校までの、その人の「素行」を知っているからに他ならない。
 人権擁護委員に誰がなるのか。そこが一番重要な問題のように思える。
 人権擁護委員会の設置は、自由主義・民主主義国家においては当然のことである。

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