いいたい放題

 右でも左でもない風来坊が、社会・経済・政治などの問題について、
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最悪の事態

2010-10-30 | Weblog

 最早、まともな議論が出来る相手ではないことが判った。協会の建物の内部で起こった、それも同じ日本聖公会の聖職者同士のトラブルを、こともあろうに警察に告発するとは、正に最悪のことを日本聖公会京都教区はしでかしてしまった。これで、日本聖公会は教会と国家の関係において、正に国家に依存して存在し続けることを宣言したことになる。そして、教会に対する国家の介入を拒むことは出来ないだろう。靖国神社の例大祭に陪席を求められたら、首座主教が喜んで九段へ行くのだろう。沖縄で何があっても、「日本の国益」という言葉で沖縄の人々に「忍耐」を語るのだろう。世界が核廃絶に向かっている時に、国家が核武装すると言い出したら、核兵器のために献金を募り、それを国家に奉献するのだろう。

 オキナワ・ヒロシマ・ナガサキ、そして人権や平和に関して祈り続けてきた他の教会を足蹴にして、自らは国家権力に従属した教会として地位を高めて行くつもりなのだろうか。聞くところによれば、主教自身が性的虐待事案の被害者ご家族の代理人である司祭の腕を取って「警察へ行こう」と言ったそうだが(目撃証言があるという)、このことを読み、また耳にした時に、少なくとも俺は「最早、日本聖公会は正常な神学的思考が不可能な集団だということを再度、認識せざるを得なかった。あの主教はおそらく、裁判員として裁判所から指名されたら、喜んで、ついでに威張って、裁判員になるのだろう。日本聖公会の他の聖職者達のほとんどはそう考えるかもしれない。そして、最高刑が死刑である事案であっても、クラジー・シャツを着て出掛けていくのだろう。

 日本聖公会の聖職者達はまともに聖書を読んだことがあるのか。歴史の中で、教会と国家がどのような関係にあり続けてきたかを知り、そのことの是非を考えたことがあるのだろうか。あの大阪万博の時に、万博キリスト教館の欺瞞性を主張した神学生を神学校から追放するために、神学生全員を出身教区に帰してしまい、穏便で何でも素直に受け容れる神学生だけをもう一度、用賀に集めたのではなかったのか。あの時に、彼らが必死になって謄写版で印刷した文書が、いまでも残っている。それでいて、オキナワ・ヒロシマ・ナガサキに関しては「進歩的」な発言をしている聖職者がいるのだが、日本聖公会京都教区で起こった警察への告発を、彼らは一体どう考えているのだろう。そして、告発され被疑者とされている司祭に対して、まるで有罪が確定したかのように「暴力を振るった」と発言している聖職者がいると聞いている。

 日本聖公会は誰のための教会なのか。イギリス国教会が王のための教会であるように、日本聖公会は、主イエス・キリストの父なる神のための教会ではなく、天皇のための教会になり下がっているのか。それとも、天皇もまた伝道の対象だと考えているならば、「天皇に洗礼を」というスローガンを掲げて、都心でデモンストレーションをしたらどうだ。そのためには、日本中の聖公会の教会の中から、反体制的な言辞が記されているチラシやパンフレットをすべて撤去しなければならない。「女性の人権」などという言葉は禁句にしなければならないだろう。「弱者救済」など絶対に口に出すな。祈祷書から天皇家のための祈りをしばらく前に削除したそうだが、あれもポーズでしかなかったということが、同じ日本聖公会の司祭を日本聖公会の司祭が警察に告発したことで明らかになってしまった。日本聖公会京都教区にはもう悔悛しろということさえ言いたくなくなるほど呆れたとしか言いようがない。残るは、11月8日に出されるという管区の小審判廷の審判だけが最後の希望になってきた。

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