いいたい放題

 右でも左でもない風来坊が、社会・経済・政治などの問題について、
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審判廷はどうなるのだろう

2008-12-27 | Weblog


 来年に京都で管区の審判廷が開かれるらしいが、一体どうなるのだろうか。何しろ、あれだけ「人権」とか「女性の人権」ということを叫んでいて連中が、こぞって口を噤んでしまっている。最早、そのこと自体から考えても、日本聖公会は京都教区における女児への性的虐待事件を見過ごしてきている責任を負わなければならないだろう。ただ、一つだけ言えることは、彼らが口にしてきた「人権」の内容は、その程度のものでしかなかったということだ。彼らにとっては「人権」という言葉を口にすることが目的であって、現実に人権が阻害されていることには、まったく目を向けていない。だから、信徒がそのことに関して傷ついていようがいまいが、まったく無関心でいられるのだろう。

 1980年代の頃から、日本聖公会は少しずつおかしくなり始めていた。祈祷書から天皇や皇族のための祈りを削除したころだが、彼らはその時もなお、米軍内にある礼拝堂との関係を絶っていなかった。片方で天皇の戦争責任を問うているのがいながら、片方で米軍の礼拝堂での聖餐式を日本聖公会の司祭が司式していた。アジアの問題を積極的に発言していながら、ここ数年にわたってフィリピンで起こっている問題に関しては、全く知らない司祭が大勢いるかもしれない。この仕事場に入ってくる情報では、すでにフィリピン聖公会の司祭が何ものかに射殺されているが、警察がその犯人を逮捕したという情報は聞こえてこない。それでいながら、日本聖公会はローマ・カトリック教会に積極的に接近しようとしている。フィリピンのローマ・カトリック教会が腰を上げ始めても、日本聖公会はいまだに沈黙し続けているように見える。

 あるいは、女性のの人権に関しては、女性司祭按手が行われ始めたら、今度は性同一性傷害と同性愛を「性的少数者」という言葉でひとまとめにし始めている。俺が知っているサイトには詳しいことは書かれていないが、あのサイトからの情報ではそう理解されるだろう。アメリカ聖公会には既に、自分は同性愛者だと公言している主教がいるという。聖書のどこから、同性愛を認めることが出来るのか。あるいは、性同一性傷害と同性愛は同じことなのかどうか。そして、彼らは、この性的少数者の中に「両性愛」までも含めて考えているようだが、彼らは何を根拠に、そしてどのような目的のためにこれをし続けているのか。これもフェミニズムを受け入れてしまった結果なのだろうが、彼らが何故、フェミニズムを受け入れていたのか。

 2ちゃんねるにのあるスレッドに「しかしなんだかんだ言ってもロマカト好きだね。この秋にもロマカトの神父さんによる信仰講座がいくつかあるけど 、どんなにロマカト愛を示したって所詮はone way love、 公式には陪餐禁止だよ。」と書き込まれていたが、ある時期から、日本聖公会はローマ・カトリック教会の礼拝学に傾倒してきていることは事実だろう。しかしそこでは、ローマ・カトリック教会のミサの根本原則が、日本聖公会の中に示されていない。ローマ・カトリック教会の典礼文に関する公式の解説には、ミサは「繰り返し犠牲」だとはっきり書かれているのだが、日本聖公会はそれをひた隠しに隠しているように見える。そして、その繰り返し犠牲であるミサを、「感謝讃美の祭り」という言葉で覆い隠してしまった。

 こうしたことは、信徒にはほとんど知らされていないと聞いているし、そうした異常な事態に反対している「聖公会の信仰」というグループは、秘密結社化しているように見える。理由は、このグループに属していることが判ると、あらゆる場面でパージされるからだという情報もこの仕事場に伝わってきている。それだけではない。既に、日本聖公会の教会から離れた方々が何人いるかということも、彼らは公式には数字であげることをしていない。日本聖公会の教会員には、何代目かのクリスチャンが多いと聞いているが、そうした家々は、教会の墓地に先祖が葬られているから、日本聖公会を離れようと思っても離れられないということも聞いたことがある。

 今夜、また友人と会うことになった。TERAさんは来られないかもしれないといっていたが、沖田総司氏も仕事で上京しているそうで、3人で話が出来そうだ。この問題は、日本聖公会の内部問題などではない。日本のキリスト教界に多大なる迷惑をかけている問題なのだ。女児に対する性的虐待を、聖書の言葉を用いて行っているというところが、極めて重大な問題であり、しかも加害者は日本聖公会の神学校で教えていた人物だという。悪質などという言葉では表現できないほど悲惨なことが、他のキリスト教会に与えた影響を日本聖公会は認識しているのだろうか。そこの所を沖田氏に尋ねてみたいと思っている。

 そして、来年には開かれるという管区の審判廷は、どのような結論を出すのか。法憲法規などに規定されている「時効」でことを済ませてしまうことはないだろうが、あの京都教区主教の文書は、去年の秋に出されたものだ。被害者の父親の了解を得ていると書かれている文書だが、俺のところに入ってきた情報では、あの文書を被害者の父親は読んでいないという。これを「時効」で済ますことは出来ないであろうし、教区主教が教会の信徒の人権を無視していることに関して、管区はしっかりとした判断をしなければならないことは、誰にでも判ることだろう。


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