<祈りの有無>というブログに「格差社会」のことが書かれている。「如何なる国であろうと如何なる時代であろうと雇用制度は社会の根幹を成すものであるが、日本の場合は年功序列からほぼ完全に能力給に変換してしまった。そのためであろう格差拡大が抑止出来ない不安定な社会になった。」と記されている。さすがに、日本の現実をよく見抜いていらっしゃる。日本の格差社会は、近年までは家の格差による社会だった。生まれたときから死ぬまで変わることのない家というものにつきまとっていた格差だ。一つの村で、あるいは一つの町で、家格順に並べと命じられたらアッという間に一列に並ぶことが出来るのではないかと思えるほど、日本人の社会には家格が根付いている。そして、その家格が個人の中で、言葉使いや態度になって表れてきていることがある。ところが、小泉純一郎氏が総理大臣になったころから、あのブログの著者がおっしゃっているように「年功序列からほぼ能力給に変換」され始めた。それまでも、一部には能力給がはっきりと根付いていたが、社会全体は年功序列によって動いていたように思える。
しかし、この年功序列が社会の発展を阻害しているのではないかと考え始めた人が、政治に中枢に現れ始めた。そして、「ブッ壊す」という言葉を発して、年功序列を能力主義に変え、修正資本主義における政府による社会の規制を弛緩させ、いくつかの部分ではそれを完全に撤廃した。共産党がこの「規制緩和」を強烈に批判したのはこのころだったような気がする。「規制緩和」は社会に必ず歪みをもたらすと警告していたが、時が経つにつれそれが徐々に見え始め、「耐震偽装工作」事件でそれが表面に浮上した。共産党の「予言」通りだった。それだけではない。郵政民営化で一番得をするのは誰か、一番困るのは誰かと言うことがはっきりと見えているにもかかわらず、一挙にこれを推し進めようと、あらゆるキャンペーンを政府は展開した。そして、竹中平蔵という人物が司令官に選ばれ、この戦略を推し進めた。そこでは、地域に根付いていた政治家が切り捨てられ、竹中が考えている新古典派経済学を押し奨めた。そして、いつ頃だったか「金持ちが貧乏人になっても、貧乏人が金持ちになれるわけではない」という言葉を竹中は吐いた。そして、日本の経済が全体として上向きになっていれば、個々の事例の中で格差が生まれても、それを修正する力が、市場自身が生み出してくると考えた。これが「市場経済」という言葉を生み出し、今では中学や高校の教科書にも出てきている。
「金持ちが貧乏人になっても、貧乏人が金持ちになれるわけではない」という竹中の発想は、にもかかわらず「再チャレンジ」という言葉を補強していたのかもしれない。「再チャレンジ」とは、言い換えれば「リベンジ=復讐」だった。そして、「無駄な道路は造るな」という言葉が都会の中で当然のことのように語られている。地方の、その町では大きな土木会社が多額の負債を抱えて倒産している現状を、竹中は「これも時のなりゆき」と見ているのだろうか。地方の大手が倒産すると、その下請けにいた弱小企業は当然のこととして廃業を余儀なくされる。そして、若者達は仕事のある都会へと流れ、過疎化・高齢化に加速度が増し加わる。しかし、都会に流れた労働力は、「規制緩和」という名の封建社会への逆戻りともとれる「派遣社員」という言葉を生み出した。竹中にとって、そうした情況は目に入っていたとしても、国家全体としての数字で表される経済的繁栄が彼の最終的な目的であることは消えなかった。それでも、人々は「再チャレンジ」という悪魔のささやきに、ある種の妄想を抱いていた。そして、日本のキリスト教会では、こうした動きを聖職者達は理解できず、ただひたすら沈黙している。日本聖公会でも同じことだ。社会問題を語っている聖職者や大学教授達も、竹中によって完璧なまでに壊された日本の社会構造について発言することはなかった。「女性の人権」「平和」「オキナワ」「ヒロシマ」「ナガサキ」を語ることはあっても、新古典派経済学が持っている「合成の誤謬」に気がついていないか、もしかするとそれに対して意図的に沈黙している。「金持ちが貧乏人になっても、貧乏人が金持ちになれるわけではない」という言葉が、いかに非福音的言辞であるかということを語ることはない。理由は簡単である。自らの地位を確保するためには、何を語ってはならないかということをしっかりとわきまえているからに他ならない。
プロテスタント教会の多くの聖職者はその道を歩んでいる。特に日本聖公会にはそれが多い。教会のある町でいま何が起きているのか、その社会の影で苦しみ悲しんでいる人々はいないのかという発想を持っていない。ごく一部ではあるが、それを持っているように見えるところがあるが、しかし、それはあくまでも「勝ち組」の中で困っている人々の問題に触れる程度でしかない。結局は、彼らは貴族のキリスト教を未だに継承しているに過ぎない。そして、こうした視点から福音を理解し、それを語ろうとしない司祭は、司祭であることを停止すべきだ。今でも、様々なところで社会の歪みが続いている。そうしたことに目を閉じて、この時代を語るな。ポーズで社会問題を語るな。大学の研究室や教会の香部屋(ベストリ)の窓から町を眺めるな。そんなところから眺めたところで、社会の深いところで起こり続けている問題を解決できるはずはない。主教や司祭は「野に下れ」。出なければ、あの京都教区における性的虐待事件とその対応の過ちに気がついていながら、何も発言していない体質を変えることなど出来はしない。そして、それが出来なければ、誰が何を語ろうが、それらはみな、単なるポーズでしかない。それとも、日本聖公会は中世封建社会の名残の中で、王や貴族に仕える教会であり続けるのか。聖書神学を欠落させた社会倫理を語るな。竹中平蔵の中には、社会倫理がない。でなければあのような発言が出てくるはずもない。そして、あの発言は聖書の福音とはまったく異質のものであることを見抜け。自分や友人は竹中と同学年であるから、あえて「竹中」と呼び捨てにしている。
マタイ福音書11章1節~11節
イエスは十二弟子にこのように命じ終えてから、町々で教えまた宣べ伝えるために、そこを立ち去られた。さて、ヨハネは獄中でキリストのみわざについて伝え聞き、自分の弟子たちをつかわして、イエスに言わせた、「『きたるべきかた』はあなたなのですか。それとも、ほかにだれかを待つべきでしょうか」。イエスは答えて言われた、「行って、あなたがたが見聞きしていることをヨハネに報告しなさい。盲人は見え、足なえは歩き、らい病人はきよまり、耳しいは聞え、死人は生きかえり、貧しい人々は福音を聞かされている。わたしにつまずかない者は、さいわいである」。彼らが帰ってしまうと、イエスはヨハネのことを群衆に語りはじめられた、「あなたがたは、何を見に荒野に出てきたのか。風に揺らぐ葦であるか。では、何を見に出てきたのか。柔らかい着物をまとった人か。柔らかい着物をまとった人々なら、王の家にいる。では、なんのために出てきたのか。預言者を見るためか。そうだ、あなたがたに言うが、預言者以上の者である。『見よ、わたしは使をあなたの先につかわし、あなたの前に、道を整えさせるであろう』と書いてあるのは、この人のことである。あなたがたによく言っておく。女の産んだ者の中で、バプテスマのヨハネより大きい人物は起らなかった。しかし、天国で最も小さい者も、彼よりは大きい。
(日本聖書協会『口語訳聖書』)
しかし、この年功序列が社会の発展を阻害しているのではないかと考え始めた人が、政治に中枢に現れ始めた。そして、「ブッ壊す」という言葉を発して、年功序列を能力主義に変え、修正資本主義における政府による社会の規制を弛緩させ、いくつかの部分ではそれを完全に撤廃した。共産党がこの「規制緩和」を強烈に批判したのはこのころだったような気がする。「規制緩和」は社会に必ず歪みをもたらすと警告していたが、時が経つにつれそれが徐々に見え始め、「耐震偽装工作」事件でそれが表面に浮上した。共産党の「予言」通りだった。それだけではない。郵政民営化で一番得をするのは誰か、一番困るのは誰かと言うことがはっきりと見えているにもかかわらず、一挙にこれを推し進めようと、あらゆるキャンペーンを政府は展開した。そして、竹中平蔵という人物が司令官に選ばれ、この戦略を推し進めた。そこでは、地域に根付いていた政治家が切り捨てられ、竹中が考えている新古典派経済学を押し奨めた。そして、いつ頃だったか「金持ちが貧乏人になっても、貧乏人が金持ちになれるわけではない」という言葉を竹中は吐いた。そして、日本の経済が全体として上向きになっていれば、個々の事例の中で格差が生まれても、それを修正する力が、市場自身が生み出してくると考えた。これが「市場経済」という言葉を生み出し、今では中学や高校の教科書にも出てきている。
「金持ちが貧乏人になっても、貧乏人が金持ちになれるわけではない」という竹中の発想は、にもかかわらず「再チャレンジ」という言葉を補強していたのかもしれない。「再チャレンジ」とは、言い換えれば「リベンジ=復讐」だった。そして、「無駄な道路は造るな」という言葉が都会の中で当然のことのように語られている。地方の、その町では大きな土木会社が多額の負債を抱えて倒産している現状を、竹中は「これも時のなりゆき」と見ているのだろうか。地方の大手が倒産すると、その下請けにいた弱小企業は当然のこととして廃業を余儀なくされる。そして、若者達は仕事のある都会へと流れ、過疎化・高齢化に加速度が増し加わる。しかし、都会に流れた労働力は、「規制緩和」という名の封建社会への逆戻りともとれる「派遣社員」という言葉を生み出した。竹中にとって、そうした情況は目に入っていたとしても、国家全体としての数字で表される経済的繁栄が彼の最終的な目的であることは消えなかった。それでも、人々は「再チャレンジ」という悪魔のささやきに、ある種の妄想を抱いていた。そして、日本のキリスト教会では、こうした動きを聖職者達は理解できず、ただひたすら沈黙している。日本聖公会でも同じことだ。社会問題を語っている聖職者や大学教授達も、竹中によって完璧なまでに壊された日本の社会構造について発言することはなかった。「女性の人権」「平和」「オキナワ」「ヒロシマ」「ナガサキ」を語ることはあっても、新古典派経済学が持っている「合成の誤謬」に気がついていないか、もしかするとそれに対して意図的に沈黙している。「金持ちが貧乏人になっても、貧乏人が金持ちになれるわけではない」という言葉が、いかに非福音的言辞であるかということを語ることはない。理由は簡単である。自らの地位を確保するためには、何を語ってはならないかということをしっかりとわきまえているからに他ならない。
プロテスタント教会の多くの聖職者はその道を歩んでいる。特に日本聖公会にはそれが多い。教会のある町でいま何が起きているのか、その社会の影で苦しみ悲しんでいる人々はいないのかという発想を持っていない。ごく一部ではあるが、それを持っているように見えるところがあるが、しかし、それはあくまでも「勝ち組」の中で困っている人々の問題に触れる程度でしかない。結局は、彼らは貴族のキリスト教を未だに継承しているに過ぎない。そして、こうした視点から福音を理解し、それを語ろうとしない司祭は、司祭であることを停止すべきだ。今でも、様々なところで社会の歪みが続いている。そうしたことに目を閉じて、この時代を語るな。ポーズで社会問題を語るな。大学の研究室や教会の香部屋(ベストリ)の窓から町を眺めるな。そんなところから眺めたところで、社会の深いところで起こり続けている問題を解決できるはずはない。主教や司祭は「野に下れ」。出なければ、あの京都教区における性的虐待事件とその対応の過ちに気がついていながら、何も発言していない体質を変えることなど出来はしない。そして、それが出来なければ、誰が何を語ろうが、それらはみな、単なるポーズでしかない。それとも、日本聖公会は中世封建社会の名残の中で、王や貴族に仕える教会であり続けるのか。聖書神学を欠落させた社会倫理を語るな。竹中平蔵の中には、社会倫理がない。でなければあのような発言が出てくるはずもない。そして、あの発言は聖書の福音とはまったく異質のものであることを見抜け。自分や友人は竹中と同学年であるから、あえて「竹中」と呼び捨てにしている。
マタイ福音書11章1節~11節
イエスは十二弟子にこのように命じ終えてから、町々で教えまた宣べ伝えるために、そこを立ち去られた。さて、ヨハネは獄中でキリストのみわざについて伝え聞き、自分の弟子たちをつかわして、イエスに言わせた、「『きたるべきかた』はあなたなのですか。それとも、ほかにだれかを待つべきでしょうか」。イエスは答えて言われた、「行って、あなたがたが見聞きしていることをヨハネに報告しなさい。盲人は見え、足なえは歩き、らい病人はきよまり、耳しいは聞え、死人は生きかえり、貧しい人々は福音を聞かされている。わたしにつまずかない者は、さいわいである」。彼らが帰ってしまうと、イエスはヨハネのことを群衆に語りはじめられた、「あなたがたは、何を見に荒野に出てきたのか。風に揺らぐ葦であるか。では、何を見に出てきたのか。柔らかい着物をまとった人か。柔らかい着物をまとった人々なら、王の家にいる。では、なんのために出てきたのか。預言者を見るためか。そうだ、あなたがたに言うが、預言者以上の者である。『見よ、わたしは使をあなたの先につかわし、あなたの前に、道を整えさせるであろう』と書いてあるのは、この人のことである。あなたがたによく言っておく。女の産んだ者の中で、バプテスマのヨハネより大きい人物は起らなかった。しかし、天国で最も小さい者も、彼よりは大きい。
(日本聖書協会『口語訳聖書』)