いいたい放題

 右でも左でもない風来坊が、社会・経済・政治などの問題について、
好き勝手に、支離滅裂に、傍若無人に書き込むブログ

解決への道

2008-01-04 | Weblog
 正月三が日が過ぎました。聖公会は正月の祝いや年賀状などは神道的なものだとお考えのようなので、あまり正月は特別な時ではないかもしれませんが、一般人にとっては正月は「お歳とり」の日でしたから、一年で一番のご馳走が食べられる日でした。新米で造ったお酒も少しは飲めたかもしれません。新しい年を祝い、新しい希望に向かって歩み始める時です。日本聖公会京都教区は、この新しい年の始めに何を考えたのでしょう。原田文雄司祭による女児への性的虐待行為とそれに対する対応の大きな間違いにお気付きになったでしょうか。

 問題の解決の道は簡単です。原田文雄司祭による性的虐待問題が表面化してから今までにこの問題に関わった聖職は全員、お元気です。武藤主教以外は現役なのではないでしょうか。だとしたら、常置委員会で何が話し合われ、それぞれがどのような意見を持っていたかということは、関わった聖職ご自身が告白すれば、原田文雄司祭の性的虐待に関する常置委員会の様子などは99%以上明らかになるのではないでしょうか。こんなに重大なことについての話し合いの内容やご自身の発言をお忘れになっているとは思えませんし、お忘れになっていたとしたら、明らかに職務怠慢です。

 京都教区の主教や聖職常置委員の発言内容と高等裁判所の裁判記録(地裁の支部で永久保存されている)があれば、すべてが明らかになるはずです。しかも、謝罪の記者会見を開いた高地主教と当時の常置委員はそれまでの経過をご存じのはずですし、確定した高裁判決をお認めになっていらっしゃるのではないでしょうか。これ以上に確かなことはありません。証拠や証言はこれで十分です。原田文雄司祭を審判廷にかけ、京都教区主教と歴代常置委員の責任もまた、審判廷でその責任を明らかにしなければならないのではないでしょうか。事件は実に深刻な問題です。現職の司祭が、女児に対する性的虐待(準強制わいせつ)を行っていたことを、日本聖公会京都教区は一旦は「事実無根である」と宣言してしまっていたのです。「冤罪」という言葉も使われていました。しかも、被害者は日本聖公会京都教区の信徒です。

 審判廷は教会にとって必要なことです。一部の聖職者たちだけで密室裁判を行うことは、教会ではあってはならないことです。それでは中世封建社会における絶対王制下の裁判になってしまいます。日本聖公会も狭山裁判の不合理性を主張されてきていたのではないでしょうか。判決が出ているにもかかわらず、証拠が開示されていないのです。日本聖公会京都教区がこれと同じようなことをしたとしたら、大変な問題です。審判廷で問題を解決する以外に方法はありません。それが教会の歴史です。一部の人々が非公式に審判することを教会は否定してきました。出発点は、使徒言行録にあるエルサレム会議です。(第15章) 日本聖公会はこのことをしっかりと認識した上で、教会会議としての審判廷を開くべきなのではないでしょうか。曖昧な形での「解決」は、将来に禍根を残します。