いいたい放題

 右でも左でもない風来坊が、社会・経済・政治などの問題について、
好き勝手に、支離滅裂に、傍若無人に書き込むブログ

武藤主教の辞任は確定的みたいだが

2007-03-30 | Weblog
 武藤主教の辞任は確定的みたいだが、高地主教は沈黙しているみたいだな。それにしても、情報がまったく入ってこなくなった。代理人は何で報告してこないんだ?困ったな。これじゃぁ、俺たちは何もかけないし、支援も出来ないぜ。まさか一人で全部担おうってわけじゃないだろ?
 狭山裁判の再審請求だって、みんなが支援しているからここまで続けてこられてるんだろ?道は長い。簡単に高地主教は辞任しないし、審判廷に出廷する気もないだろ?それとも、代理人と何かを話し合っているのか?

 俺の友人に電話したんだが、彼奴も何も知らなかったな。
 審判廷を開くための申し立ては何時になるんだ?みんなそれを知りたがってるんだよな。それも単に興味本意ではなく、真剣に祈りながら待ってるんだ。被害者のために、一日も早く決着を付けなきゃならないだろうからな。情報がしっかりと流れてこないで、突然大本営発表をされても、俺たちはそれをどう考えていいのか判らなくなってしまう。
 これじゃ「元も子もなくなって」しまうんじゃないのか?審判廷の時効の問題もあるだろ?情報がまったくと言っていいほど伝わってこないから、どうしようもないんだよな。

 こういう闘いを経験したことがないのかな。
 孤立無援の闘いは99%以上勝ち目がない。俺たちは勝たなきゃならんのだろ?被害者のために。それも、多くの支援者が納得する仕方でだ。被害者やその家族と代理人の間でだけ了解していても、支援者に何の報告も為されなければ、支援のしようがなくなる。一昨日の一斉メールにあった「こんな無学無教養、浪花節のような信仰の人間が、秩序立てて考え事件の処理ができるはずはない」ということは誰でもが認めていることだろうし、「神学も法もない世界でずっと生きてきたのですから」という意見は、実に的を射てるな。キリスト教会を人情論で導こうとしたら、教会はキリストの教会ではなくなる。俺たちが考えるときの基準は聖書と教会の歴史だろ。個人の内面の問題じゃないし、神学的営為を避けたところで出来るものでもない。そして、神学は常に共同体の学であり続けてきた。個人の内面だけを問題にすることを信仰告白とは呼んでも、神学とは考えてこなかった。

 情報が欲しいな。何しろ情報が欲しい。
 それとも、支援者はもういらないのか?支援者は足手まといなのか?それはないだろ?いつ頃からこれを考え出したか判らないが、かなり早い段階からの支援者が大勢いるんじゃないのか?俺みたいな他教派の人間は蚊帳の外だとしたら、結局聖公会は人情論から抜け出すことは出来ないように思えるのだが。それとも、「聖公会はプロテスタントの雄」だから、他の教派は黙っていろってか?まぁ、しばらくは静観してみるかな。悪く云えば、お手並み拝見と云うことだが、こういう仕事を個人でした場合は、上がってなんぼの世界だからな。自分一人で納得しても、蚊帳の外にいる支援者は何も出来ない。「結局駄目でした」という報告を受けたら、支援者は黙っていないぞ。みんな真剣に祈って考えてきたんだからな。当然だろう。