富士市を中心の郷土史

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富士市今泉の昔話(133)年譜(11)

2014年12月06日 08時06分23秒 | 昔話
富士市今泉の昔話(133)善得寺に関する当地の年譜(11)

年次    西暦     事項
慶長19 1614  「1月28日、大御所江戸より善徳寺に着かせたまふ。」
           (実記)
            10月1日、大阪冬の陣始まる。
元和 元 1615  4月1日、大坂夏の陣始まる。
           5月8日、豊臣氏滅亡。
           「10月1日、大御所善徳寺に着かせたまふ。」(実記)
           「10月2日、善得寺に延留江戸へ。」(実記)
           「12月15日、三島をいでたまひ瀬古善徳寺に着かせ
            たまふ。」(実記)
            「12月16日、善徳寺より駿府へ帰らせたまふ。」(実記)
            善得寺御殿にて家康仙頭の地(三島)を隠居所と定む。
            此の間に善徳寺の再建が許された。
            家康の駿府・江戸往復の途次の宿舎として御殿場に御殿場
            御殿新築。東西90m、南北82m。一度も使用されなかった。
元和 2 1616  新善徳寺再建。(延寿堂跡に寺域東西40間南北30間)
           小庵は今泉宝鑑によれば9尺2間。檀家寺として。
           10代法岩寿公首座入山。
{善徳寺は永禄12年(1569)に信玄により焼かれて以来1616年新築されるまで
47年間所要している。天正15年(1587)東杲禅師が太源禅師の33回忌の法要を
為し、資材を集めつつ再建の許可を家康に求めていたと思はれるが中々許可が得られなか
った様である。是は場所の事或いは規模の事或いは宗派の事もあったかもしれない。清岩
寺が同じ地に1580年に開基されている事より禅宗にの応援が少なくなっての事かも解
らない。資材を徴用され、文禄3年(1594)東杲禅師が清見寺で没してより、再建の
動きは止まっていたのかも解らない。10代法岩首座が檀家を集め、構想を持ち再建の
運動を再開したと考える。首座の法系が不知であり調査が必要である。何にしても大壇越
のなくの再建は大変だったと思はれる。}

           1月211日、家康 田中にて鷹狩り 急病。
           4月17日、家康急死。
           4月19日、久能山に葬る。
元和 3 1617  忠長甲府領主と為る。11歳。
           3月15日、日光への家康の神柩善徳寺御殿に泊、初夜法要。
            一行300余騎、雑兵1000人。
           4月4日、日光到着。
           「今夜の御泊は富士山の麓善徳寺なり。」(徳川実記)
           「神柩吉原を出て浮島ケ原経由三島へ。」(実記)
{吉原の地名がある。善徳寺の場所を全汎的に吉原と呼称していたと思はれ、他の記述と
共に秀吉の為の吉原御殿が此処に在った証と考えられ、次の移りを想定する。
 秀吉の為の吉原御殿―家康の善徳寺御殿―忠長の茶屋御殿―廃却 }
元和 7 1622  古郡重高により岩本山の南西端に雁堤の一番出し、二番出し完成。
           これにより富士川本流の東流が緩和され、岩本・松岡以南の水害
           を防いだ。駿州代官の功となった。
元和 8 1623  見性院(梅雪夫人、信玄の第二女)江戸にて死す。(甲斐国志)
寛永 元 1624  忠長駿河国守と為る。旧武田家臣は隋身。
寛永 2 1625  古郡重政、忠長の付け人と為る。駿州代官初代。


ブログ開設し昔話を続けること130回余、年譜の区切りとなる年末で一区切りをするこ
とにした。日を改めて善得寺及び善得寺城につき私説を再記して見たい。
次週には霜げると思はれる名残の花々を列する。