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富士市今泉の昔話(135)善得寺に関する当地の年譜(13)

2014年12月20日 09時12分04秒 | 昔話
富士市富士市今泉の昔話(135)善得寺に関する当地の年譜(13)

年次   西暦    事項
寛文 元 1661  法雲寺、龍岳周信和尚の時清見寺大梁和尚との縁により妙心寺派
           として再興。
寛文 2 1662  古郡孫大夫重政、善得寺村を今泉村とす。
           保泉寺中吉原に移転す。
寛文 7 1667  古郡氏富士川雁堤着工。
寛文 9 1669  慈照寺開基、広大院医冨川慈照居士没。
寛文11 1671  古郡重年、2代目代官となる。
延宝 2 1674  富士川雁堤完成。備前堤(人柱が備前の人だった為の名)完成。
           富士川本流を岩淵の派川に流す。
{富士川の上流の釜無川がある。此処も支流の氾濫による水害が絶えなかったが、信玄
が今に名が残る信玄堤を築営、治水を完成させ多くの田畑を為し得た。築営は甲州流で
信玄堤の内に大きな遊水地を設け、楊柳などの木を植え堤防と共に水勢を弱め治水を
完成させた。雁堤は此の甲州流の治水を範としていると思はれる。}
           水神下の堤防を川成島まで延長。
           古郡3代(重高・重政・重年)の偉業なる。
延宝 3 1675  末寺善徳寺在住。(清見寺資料)
延宝 4 1676  10代、法岩寿公首座没。(善徳寺過去帳)
延宝 8 1680  8月6日、大津波中吉原へ。
天和 元 1681  2年にかけて中吉原宿は現在の吉原宿に移転。
天和 2 1682  高林西堂和尚没。(善徳寺過去帳)
           11月1日、5代将軍綱吉により孝子中村五郎衛門表彰、永代
           90石賦与。
元禄14 1701  (善徳寺の檀家だったと思はれる家祖宗弘大徳没。)
元禄16 1703  地震により小田原城天守破損。
宝永 2 1706  瀬古の忠長の御茶屋御殿命により取り壊し。(駿河資料)
   3 1707  小田原城天守復元。
   4 1707  田宿の住人が富士川(富士川は雁堤で閉め切られており、潤井川
           の堤防欠壊が続いたためかも知れない)の洪水により移住が必要と
           なり、代官能勢の指示により瀬古の地(御殿)に引き越しした。
           吹上の水の再配分が図られた。吹上・寺市場に2、御殿に1の割合
           で分水が整備された。分水に工夫(甲州の三分の一の地の如く
           溜め池を作り、出口に滝を作り落ち口の比で水を分割。現在は道路
           下となっているが石堰は残つており大事にしたい)がされている。            (今泉宝鑑)
           この折埋められていた忠長卿の什器と思はれる銀製品が出土し、
           領主に提出したがその後不明。
           富士山宝永の大噴火。
宝永 5 1708  本国寺新川改修。今泉郷地の灌漑完成、中村三郎衛門の功として今
           泉の堰部に顕彰の碑がある。
正徳 2 1712  福応寺開山。古岸和尚(清見寺芝岸和尚の法脈)。
正徳 3 1713  熊野別当より家祖に普賢院免許状、桃色袈裟免許状あり。
正徳 5 1715  湘南薫座元没。(過去帳)
           8月7日、瀬古の鈴木氏宅に弁財天祀らる。駿河大納言の屋敷跡
           に権現様が祀られているの伝承があったが、東照大権現で無く九
           頭流権現だったが関係が考えられる。
享保 3 1718  白隠、妙心寺の首座となり白隠と号す。
享保11 1726  善徳寺の本尊寄進の蓮池金左衛門死去。(善徳寺過去帳)
           永明寺の蓮池の墓地に墓が残る。過去帳の氏名で現在確認できて
           いるのは唯一の物である。
享保12 1727  慈照寺廃。法雲寺に合併。
寛保 3 1734  福応寺全焼。

冬本番。雪姿を池に映しての富士が美しい。



我が林業地の北端の「こどもの国」の前に金原明善翁の林業推奨の碑を立ててある。
明治の末に家祖が翁の指導を得て、林業に丹精・努力を重ねた折戴いた色紙の辞である。
此の頃の植林が100年の樹齢を越え、林道板小屋線に明治の林の看板を立てた。