富士寺今泉の昔話(137)善徳寺に関する当地の年譜(15)
当地の年譜を記して15回、源平時代より現代までの歴史を尋ねて年末になった。まだまだ勉強したき事が多いが一つの区切りとして「昔話」を今回で休み、改めて善得寺・善得寺城につき纏める事を考えたい。
天保 4 1833 天保の大飢饉。4年~10年(1839)。
天保11 1840 祥座元禅師没。(過去帳)
是より善徳寺無住。
嘉永 6 1853 末寺善徳寺無住。(清見寺資料)
安政 元 1854 11月4日、安政の大地震発生。
デイアナ号遭難。
富士川東岸に陥没、堤防決壊により五貫島付近大被害。
清岩寺本堂倒壊。
安政 4 1457 古郡重年(3代代官)他へ転出の後、江川太郎左衛門が代官と
なり、富士川の治水を進めた。
大被害を受けた五貫島等を救うため、後にいふ「帰郷堤」を
1457年に開始し1458年に完成させた。完成後住民が故郷
に帰った思いが多く、堤を帰郷堤といい大事にされている。
安政 5 1458 帰郷堤完成。
明治 元 1868 末寺書き上げ、今泉村善徳寺。(清見寺資料)
明治 4 1872 善徳寺廃寺となり、法雲寺に合される。
合するにあたり、善徳寺資料も引き継がれ、中には善徳寺の過去
帳があり、善徳寺を知る貴重な物となっている。過去帳には延宝
年間(1672)より明治までの約600柱の戒名が記されている。 興味ある諸事項は前記したが、200年間にの数は少ない気がする。
明治13 1880 今泉大火(鍛冶屋瀬古より清岩寺まで類焼260戸余)により
清岩寺主要堂宇焼失。
昭和 2 1927 清岩寺本堂再建。
昭和49 1974 福応寺に茶荃塚建立。
昭和61 1986 善徳寺供養祭開始。
以降現在まで地方の行事として定着、毎年大勢の人を集め法雲寺
の御住職を導師として盛大に行われている。現在は今泉地区の
例祭となっている。
以上にて善徳寺に関する当地の年譜を終わる。
家業の林業の標として、林業地の中心の瀬古辻に明善碑・五千石の讃句の碑・武者小路
の愛山碑をたてた。讃句の碑に2碑を侍ししめ林業への我が家の丹精・努力の決意の碑と
した。
わが生は檜苗植え継ぐことで足る 壷天
木を測る声を復唱息白し 稜子
木の径を測るとその声を復唱し記録する二人作業の姿である。
林業の施業法として試行を重ねているが、現在は80年を伐期とする長伐期施業を進めており、写真は60年の杉林である。
当地の年譜を記して15回、源平時代より現代までの歴史を尋ねて年末になった。まだまだ勉強したき事が多いが一つの区切りとして「昔話」を今回で休み、改めて善得寺・善得寺城につき纏める事を考えたい。
天保 4 1833 天保の大飢饉。4年~10年(1839)。
天保11 1840 祥座元禅師没。(過去帳)
是より善徳寺無住。
嘉永 6 1853 末寺善徳寺無住。(清見寺資料)
安政 元 1854 11月4日、安政の大地震発生。
デイアナ号遭難。
富士川東岸に陥没、堤防決壊により五貫島付近大被害。
清岩寺本堂倒壊。
安政 4 1457 古郡重年(3代代官)他へ転出の後、江川太郎左衛門が代官と
なり、富士川の治水を進めた。
大被害を受けた五貫島等を救うため、後にいふ「帰郷堤」を
1457年に開始し1458年に完成させた。完成後住民が故郷
に帰った思いが多く、堤を帰郷堤といい大事にされている。
安政 5 1458 帰郷堤完成。
明治 元 1868 末寺書き上げ、今泉村善徳寺。(清見寺資料)
明治 4 1872 善徳寺廃寺となり、法雲寺に合される。
合するにあたり、善徳寺資料も引き継がれ、中には善徳寺の過去
帳があり、善徳寺を知る貴重な物となっている。過去帳には延宝
年間(1672)より明治までの約600柱の戒名が記されている。 興味ある諸事項は前記したが、200年間にの数は少ない気がする。
明治13 1880 今泉大火(鍛冶屋瀬古より清岩寺まで類焼260戸余)により
清岩寺主要堂宇焼失。
昭和 2 1927 清岩寺本堂再建。
昭和49 1974 福応寺に茶荃塚建立。
昭和61 1986 善徳寺供養祭開始。
以降現在まで地方の行事として定着、毎年大勢の人を集め法雲寺
の御住職を導師として盛大に行われている。現在は今泉地区の
例祭となっている。
以上にて善徳寺に関する当地の年譜を終わる。
家業の林業の標として、林業地の中心の瀬古辻に明善碑・五千石の讃句の碑・武者小路
の愛山碑をたてた。讃句の碑に2碑を侍ししめ林業への我が家の丹精・努力の決意の碑と
した。
わが生は檜苗植え継ぐことで足る 壷天
木を測る声を復唱息白し 稜子
木の径を測るとその声を復唱し記録する二人作業の姿である。
林業の施業法として試行を重ねているが、現在は80年を伐期とする長伐期施業を進めており、写真は60年の杉林である。