富士市を中心の郷土史

昔話、城、寺、歴史。

富士市今泉の昔話

2012年06月11日 14時39分35秒 | 昔話
米寿となり郷土の山河を見るとき、昔との変化に嘆じ変わった諸点を書いてみたくなった。
ことに吹上・瀬古の地にあった大寺善得寺に関して10年の勉強の私見を中心に書いてみたい。
既に数次に亘り郷土誌「駿河」に発表しているが、項目・順序は変えて逐次纏めてゆきたい。この土地の変容も懐かしい思い出がある。


1、 吹上周辺のその昔(1)


吹上北部は昭和33年に伝法原田線が開設されるまでは一帯里山を含む畑の連続する長閑な風景で、清岩寺の北西にF家1軒と「かまば」の西にIk家・In家の二軒の住居があるだけであった。市道開設後は一変し住居が急増してきた。
その昔この地の東西の道は、三島製紙―飯森神社南―「かまば」南―In家南―茶山北―妙延寺の鎌倉古道と呼ばれる馬力道のみであった。ただ不思議の事に土手道の様に一段高い古道と其の南約10mほどの間に大岩(溶岩)と岩礁の様に岩が立っていたことである。今善得寺の調査に考えると、善得寺の北限は鎌倉古道であり、鎌倉古道は10m程の幅があり、これが梅雪による入植者が畑化する時長い間に道を削り削りして岩礁の如く岩を残し、当時馬力道程の鎌倉古道のみが残ったと考えられないだ
古道の南の茶山は地図の如く約10m程の高さの丘で、A家の所有で全面茶畑で覆われ頂上に祠と欅(?)の大樹があった。今は宅地化の為平坦化されその姿は無い。平坦化されるとき溶岩は出ず、また埋蔵物も無かったとの事である。善得寺の勉強する間にこの山は「香語」に在る如く、吹上の南の丘を平らにし累石を連ねて伽藍を設置した時の廃土を処分した物と私見した。山神社の丘も同様に築山と考えられる。茶山の東には塔頭があり、山神社の東には延寿堂があったと私見した。
清岩寺の西に北行きの道が小川と共にあり、幕末の古図には大宮道と記されている。小川は義元が善得寺の為に開設した用水(揚水)で今泉宝鑑に出土の竹筒を今川時代の物と記している。小川は清岩寺の北で東に曲がり、小川と道との間にS家の桃畑があり、桃畑の北端で小川は東行となり、桃畑の北にM家の「たも」(とろろあおいー製紙原料)タンクがあった。タンクは2K×4K(?)のコンクリ製の半地下型であり、収穫時に大量を仕入れ年間適時に販売する事によりM家の繁栄をなしていた。