富士市を中心の郷土史

昔話、城、寺、歴史。

富士市今泉の昔話(2)

2012年06月16日 14時56分47秒 | 昔話
2吹上周辺のその昔(2)

今川義元の時代に富士市吹上・瀬古の地に丘を削って七堂伽藍を備えた善得寺が創設され、同時に用水として原田の中島の湧水依り延々の水路が開設された。

大伽藍の創設と共に大土木工事だったに違いない。善得寺が武田に依り焼き打ちされた後は高台の生活用水として活用され、武田の郷士の開拓以来富士市の水道が出来るまで続いてきた。

水路に就いては尚後記するが、この項では吹上・御殿の分水につき当時の状況を記してみる。洗い水となる水路の水は清岩寺の西で吹上・寺市場と御殿の地区に二分されている。比率は2対1であるが分水方法に工夫されている。

山梨県の北杜市に三分の一(地名)がある。これは多くの湧水を一つの川に集め、これを更に三等分し、下流の三村に不平の無い様にするための施設で、武田の時代と伝承されている。この骨子は集めた水を広い底の平らの池に導き、これに落差の等しい滝三ケを設け、滝口三ケの幅を等しくしている。写真は分配池の様子です。このミニチュアが富士川楽座の広場に設置されている。



この分水の方法が吹上の場所に作られており、昔よりの物と考えると素晴らしい。50cm程の小川を1500cmほどの底の平らの池に広げ、其の南端に落差50cmの等しい滝口を設け、滝口を2対1の比で分水している。現在は舗装され暗渠となっているが、場所は鉄格子を嵌められその分水の花崗岩は見る事が出来る。写真は現在の状況です。



昔は此処で大根を洗い、池では障子を洗ったことを覚えている。初夏の頃には「おんじょさん」(ウスバカゲロウの幼虫)の無数が群れを造って乱舞し、上下した。これを獲る蝙蝠も見られた。この頃はまた松原川に蛍が乱舞し蛍狩りを楽しんだ。

先稿で地図の説明が欠けていた。地図は市役所発行の昭和33年の物で、尚新道は無いが住宅が建ち始めている。太い点線は後記する今川義元に依る善得寺の北端を示し、約10町歩を私見する。この私見の図はなお誰も発表していない。北端の道は所謂鎌倉古道で、後に甲州街道となり、ある時期は根方街道を兼ねていた。古道が妙延寺の北を通る辺(現在H家の墓所)に榎木の大木が列を成していた。抱え余る大木は現在H家の墓所となり今はないが其の根は残っている。古道に関係の列樹ではないだろうか?

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