富士市今泉の昔話(89)外伝 善得寺考 霊場巡り(28)
四国霊場第69番観音寺
順拝日 20,3,16、
由緒等 寺伝によれば、大師は神恵院を霊場に定めた時、神功皇
后は観世音の生まれ変わりとして聖観世音菩薩の尊像を
刻まれ、山の中腹に7宝山観音寺を創建して尊像を安
置し、八幡宮の別当寺として69番の霊場に定めた。
観音寺の伽藍配置は奈良興福寺の東西金堂、中本堂の
制に習っており、中本堂には聖観世音、西金堂には薬
師如来と12神将、東金堂には弥勒菩薩を安置し
ていた。
本坊書院の庭園は、枯山水の名園で躑躅の名所として
知られている。
御本尊 聖観世音菩薩
御詠歌 かんのんの だいひのちから つよければ
おもきつみをも ひきあげてたべ
![](https://blogimg.goo.ne.jp/user_image/72/c1/2b2c927a0175fcc71f0d8350d969aaf1.jpg)
四国霊場第70番本山寺
順拝日 20,3,16、
由緒等 大同4年に弘法大師が建立し、天暦2年(948)に
修理したが、その後上の4層が破損した為下の1重の
みを修理し塔堂として残っている。本堂は大同2年
(807)平城天皇の勅願により、弘法大師が一夜の内
に建立したと伝えられる。
美しい仁王門(8脚門)は久安3年(1147)の建
立で重文。
5重の塔は31番竹林寺と75番善通寺とこの寺の3
か所しかない。
御本尊 馬頭観世音菩薩
御詠歌 もとやまに たれかうえける はななれや
はるこそたをれ たむけにぞなる
![](https://blogimg.goo.ne.jp/user_image/03/6d/2fdf8e2ce7252711c0b844ff6d433d25.jpg)
四国霊場第71弥谷寺
順拝日 20,3,16、
由緒等 縁起によれば、行基菩薩が諸国を順拝の折、此の山に
登った時、四国を始めとする備前、備中、備後、安芸
の8国が展望出来た。そこで東の峰には阿弥陀如来、
西の峰には釈迦如来を安置し、蓮華山八国寺と名付け
た。
御本尊 千手観世音菩薩
御詠歌 あくにんと ゆきつれなんも いやだにじ
ただかりそめも よきともぞよき
![](https://blogimg.goo.ne.jp/user_image/57/30/13d7b3f184136a51508498e6b980fb93.jpg)
四国霊場第72番曼荼羅寺
順拝日 20,3,16、
由緒等 寺は弘法大師の先祖である佐伯氏の氏寺として推古4
年(596)創建され、世坂寺と称していたが、弘法
大師が留学後、御本尊の大日如来を勧請し、大同2年、
金胎曼荼羅を安置し、唐の青龍寺に模して堂塔を建立
し、寺号も我拝師山曼荼羅寺と改めた。
境内には西行法師の「笠掛け桜」「昼寝石」がある。
御本尊 大日如来
御詠歌 わづかにも まんだらおがむ ひとはただ
ふたたびみたび かへらざらまし
![](https://blogimg.goo.ne.jp/user_image/45/16/0295a29b4d2d522e3ad8f5883ebca738.jpg)
四国霊場第73番出釈迦寺
順拝日 20,3,16、
由緒等 伝説によれば、弘法大師が7歳の時この山に登り、「仏
門に入り多くの人を救いたい。此の願いがかなうなら釈
迦如来現れたまえ、もし願いがかなわぬならば1命を捨
ててこの身を諸仏に供養する」と言って、断崖絶壁から
谷底へ身を投げた。此の時釈迦如来と天女が現れて雲上
に抱きしめ「一生成仏」の旨を言われた。一命を救われ、
その願いが成就することを示された大師は、感激して釈
迦如来の像を刻み、堂宇を建てて出釈迦寺とし、倭斯濃
山を我拝師山に改めた。
寺名はお釈迦さまが苦行した後、山から出てきた姿を
「山出の釈迦」と言はれるところからきている。
御本尊 釈迦如来
御詠歌 まよひぬる ろくどうしゅじょう すくはんと
とうときやまに いづるしゃかでら
![](https://blogimg.goo.ne.jp/user_image/6c/f0/4a60ae05ac5a300ed831f0824c0587c3.jpg)
「春遠からじ」の思いに庭の蝋梅が咲き始めた。3本の内1本のみ
が花盛りの様子は「あはれ」を感ずる。
![](https://blogimg.goo.ne.jp/user_image/42/55/a4297ab28a425d5ab192492229b068c9.jpg)
四国霊場第69番観音寺
順拝日 20,3,16、
由緒等 寺伝によれば、大師は神恵院を霊場に定めた時、神功皇
后は観世音の生まれ変わりとして聖観世音菩薩の尊像を
刻まれ、山の中腹に7宝山観音寺を創建して尊像を安
置し、八幡宮の別当寺として69番の霊場に定めた。
観音寺の伽藍配置は奈良興福寺の東西金堂、中本堂の
制に習っており、中本堂には聖観世音、西金堂には薬
師如来と12神将、東金堂には弥勒菩薩を安置し
ていた。
本坊書院の庭園は、枯山水の名園で躑躅の名所として
知られている。
御本尊 聖観世音菩薩
御詠歌 かんのんの だいひのちから つよければ
おもきつみをも ひきあげてたべ
![](https://blogimg.goo.ne.jp/user_image/72/c1/2b2c927a0175fcc71f0d8350d969aaf1.jpg)
四国霊場第70番本山寺
順拝日 20,3,16、
由緒等 大同4年に弘法大師が建立し、天暦2年(948)に
修理したが、その後上の4層が破損した為下の1重の
みを修理し塔堂として残っている。本堂は大同2年
(807)平城天皇の勅願により、弘法大師が一夜の内
に建立したと伝えられる。
美しい仁王門(8脚門)は久安3年(1147)の建
立で重文。
5重の塔は31番竹林寺と75番善通寺とこの寺の3
か所しかない。
御本尊 馬頭観世音菩薩
御詠歌 もとやまに たれかうえける はななれや
はるこそたをれ たむけにぞなる
![](https://blogimg.goo.ne.jp/user_image/03/6d/2fdf8e2ce7252711c0b844ff6d433d25.jpg)
四国霊場第71弥谷寺
順拝日 20,3,16、
由緒等 縁起によれば、行基菩薩が諸国を順拝の折、此の山に
登った時、四国を始めとする備前、備中、備後、安芸
の8国が展望出来た。そこで東の峰には阿弥陀如来、
西の峰には釈迦如来を安置し、蓮華山八国寺と名付け
た。
御本尊 千手観世音菩薩
御詠歌 あくにんと ゆきつれなんも いやだにじ
ただかりそめも よきともぞよき
![](https://blogimg.goo.ne.jp/user_image/57/30/13d7b3f184136a51508498e6b980fb93.jpg)
四国霊場第72番曼荼羅寺
順拝日 20,3,16、
由緒等 寺は弘法大師の先祖である佐伯氏の氏寺として推古4
年(596)創建され、世坂寺と称していたが、弘法
大師が留学後、御本尊の大日如来を勧請し、大同2年、
金胎曼荼羅を安置し、唐の青龍寺に模して堂塔を建立
し、寺号も我拝師山曼荼羅寺と改めた。
境内には西行法師の「笠掛け桜」「昼寝石」がある。
御本尊 大日如来
御詠歌 わづかにも まんだらおがむ ひとはただ
ふたたびみたび かへらざらまし
![](https://blogimg.goo.ne.jp/user_image/45/16/0295a29b4d2d522e3ad8f5883ebca738.jpg)
四国霊場第73番出釈迦寺
順拝日 20,3,16、
由緒等 伝説によれば、弘法大師が7歳の時この山に登り、「仏
門に入り多くの人を救いたい。此の願いがかなうなら釈
迦如来現れたまえ、もし願いがかなわぬならば1命を捨
ててこの身を諸仏に供養する」と言って、断崖絶壁から
谷底へ身を投げた。此の時釈迦如来と天女が現れて雲上
に抱きしめ「一生成仏」の旨を言われた。一命を救われ、
その願いが成就することを示された大師は、感激して釈
迦如来の像を刻み、堂宇を建てて出釈迦寺とし、倭斯濃
山を我拝師山に改めた。
寺名はお釈迦さまが苦行した後、山から出てきた姿を
「山出の釈迦」と言はれるところからきている。
御本尊 釈迦如来
御詠歌 まよひぬる ろくどうしゅじょう すくはんと
とうときやまに いづるしゃかでら
![](https://blogimg.goo.ne.jp/user_image/6c/f0/4a60ae05ac5a300ed831f0824c0587c3.jpg)
「春遠からじ」の思いに庭の蝋梅が咲き始めた。3本の内1本のみ
が花盛りの様子は「あはれ」を感ずる。
![](https://blogimg.goo.ne.jp/user_image/42/55/a4297ab28a425d5ab192492229b068c9.jpg)
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