富士市今泉の昔話(90)外伝 善得寺考 霊場巡り(29)
四国霊場第74番 甲山寺
順拝日 20,3,17、
由緒等 大師が善通寺と曼荼羅寺との間に伽藍を建立しようと、
その霊地を探していたら甲山の麓の岩窟から老翁が現れ、
暗示を受けた。大師は歓喜のあまり、石を割いて毘沙門
天の尊像を刻んで岩窟に安置し、供養された。
その後大師は京都に居られたが、弘仁12年(821)、
満濃池築造の別当に任ぜられて当地に赴任し、薬師如来
を刻んで工事の成功を祈願した。その徳を慕う数万の農
民に依って工事は完了した。そこで堂塔を建立し、薬師
如来を本尊として安置したと言う。
讃岐の地は古来水が不足し溜め池が多いが、満濃池はそ
の最大で日本一と言はれている。
御本尊 薬師如来
御詠歌 じゅうにしん みかたにもてる いくさには
おのれとこころ かぶとやまかな
![](https://blogimg.goo.ne.jp/user_image/0b/9a/fdbc61981c63840438eabeddeef9394c.jpg)
四国霊場第75番 善通寺
順拝日 20,3,17、
由緒等 弘法大師は唐より帰朝後、大同2年(807)真言宗弘
通の勅許を得たので、先祖の氏寺の建立を発願した。父
の善通卿は大いに悦び自身の荘田を提供されたので、そ
の年の12月より工事にかかり、6年後の弘仁4年7堂
伽藍は完成した。
堂塔は唐の青龍寺に模して造られ、寺名は父の名をとっ
て善通寺と名付けられた。
高さ約45mの5重塔は江戸末期から明治にかけて再建
されたもので、寺の象徴と言える大塔である。
此処は弘法大師の誕生所で御影堂が在り、御影堂の下に
は戒壇巡りが在る。此処は「悪行の在る者は此の地下か
ら出られない」と言はれる。
(所感)鷹鳩と舞ふ影を地に善通寺 稜子
御本尊 薬師如来
御詠歌 われすめば よもきえはてじ ぜんつうじ
ふかきちかひの のりのともしび
![](https://blogimg.goo.ne.jp/user_image/71/aa/f488b5360d66f31a3e95f64af617f189.jpg)
四国霊場第76番 金倉寺
順拝日 20,3,17、
由緒等 金倉寺は智証大師の祖父和気道麿(道善)によって宝亀
5年(774)開創され、道善寺と称していた。智証大
師は唐より帰国後しばらくこの寺にすまはれ、先祖の菩
提にと、唐の青龍寺を模して伽藍の造営に着手し、4年
後に落成した。仁寿元年(851)には勅願寺となり、
延長6年(928)醍醐天皇が金倉の郷に在るので金倉
寺に改称した。その頃寺は南北8km東西4kmの広大の寺
域に132の僧坊を有して盛んであった。
明治31年から4年間、乃木将軍が寺の客殿に住み善通
寺の師団本部へ馬で通われた。寺域には銅像が在り、軍
帽等の遺品、直筆の山号額も見られる。東京よりの夫人
に会はず、夫人は松の下でたたずんでいたとの事よりこ
の松を「乃木将軍妻返し松」と呼んでいる。
御本尊 薬師如来
御詠歌 まことにも しんぶつそうを ひらくれば
しんごんかじの ふしぎなりけり
![](https://blogimg.goo.ne.jp/user_image/02/e3/5baf4dcd9dda326cd135cc6e0084d7d8.jpg)
四国霊場第77番 道隆寺
順拝日 20,3,17、
由緒等 天平勝宝元年(749)のころ、この付近は一大桑園で
あった。此の桑園で和気道隆は誤って乳母を弓で射って
しまった。嘆き悲しんだ道隆は其の供養のために桑の大
樹を伐って薬師如来の小像を刻み、小堂を建てて安置し
た。是が此の寺の草創と伝える。
その後、弘法大師が留錫し、薬師如来を刻んで小像を胎
内に納め本尊とした。
「眼なおし薬師さま」として信仰されている。
寺域に多数の観音像が列座している。西国、秩父、四国、
の3霊場の観音様合計255体の列座で壮観である。
讃岐富士(飯野山)が眼前に出来る。
御本尊 薬師如来
御詠歌 ねがひをば ぶつどうりうに いりはてて
ぼだいのつきを みまくほしさに
![](https://blogimg.goo.ne.jp/user_image/1b/2d/ae25fd76d76c2aa9be65311571896a7f.jpg)
四国霊場第78番 郷照寺
順拝日 20,3,17、
由緒等 霊亀年間(715~17)行基菩薩により開創され、仏
光山道場寺と名付けられ、御本尊の阿弥陀如来は行基菩
薩の作と伝える。後に弘法大師が留錫して荒廃した伽藍
を改築し霊場に定めた。更に後に一遍上人が伽藍を再興
した。
大師堂の手前には3万体の万体観音を安置した洞窟があ
る。
42歳の大師の自刻像を安置し、「厄除け大師」の名が
在り、「心はすなはち本尊」の大師の言葉も残されてい
る。
御本尊 阿弥陀如来
御詠歌 おどりはね ねんぶつとなふ どうじょうじ
ひょうしをそろへ かねをうつなり
![](https://blogimg.goo.ne.jp/user_image/5e/4f/70ca5c439c746fb9c50a989b26ba62a1.jpg)
探梅の冬の時期、梅が咲き始めた。冬至梅の名に依る速さかもしれ
ない。紅梅も蕾が膨らんできた。春が駆け足で来るを感ずる。
![](https://blogimg.goo.ne.jp/user_image/63/b1/19ff27483cf7c75becc999c5734dc3ca.jpg)
四国霊場第74番 甲山寺
順拝日 20,3,17、
由緒等 大師が善通寺と曼荼羅寺との間に伽藍を建立しようと、
その霊地を探していたら甲山の麓の岩窟から老翁が現れ、
暗示を受けた。大師は歓喜のあまり、石を割いて毘沙門
天の尊像を刻んで岩窟に安置し、供養された。
その後大師は京都に居られたが、弘仁12年(821)、
満濃池築造の別当に任ぜられて当地に赴任し、薬師如来
を刻んで工事の成功を祈願した。その徳を慕う数万の農
民に依って工事は完了した。そこで堂塔を建立し、薬師
如来を本尊として安置したと言う。
讃岐の地は古来水が不足し溜め池が多いが、満濃池はそ
の最大で日本一と言はれている。
御本尊 薬師如来
御詠歌 じゅうにしん みかたにもてる いくさには
おのれとこころ かぶとやまかな
![](https://blogimg.goo.ne.jp/user_image/0b/9a/fdbc61981c63840438eabeddeef9394c.jpg)
四国霊場第75番 善通寺
順拝日 20,3,17、
由緒等 弘法大師は唐より帰朝後、大同2年(807)真言宗弘
通の勅許を得たので、先祖の氏寺の建立を発願した。父
の善通卿は大いに悦び自身の荘田を提供されたので、そ
の年の12月より工事にかかり、6年後の弘仁4年7堂
伽藍は完成した。
堂塔は唐の青龍寺に模して造られ、寺名は父の名をとっ
て善通寺と名付けられた。
高さ約45mの5重塔は江戸末期から明治にかけて再建
されたもので、寺の象徴と言える大塔である。
此処は弘法大師の誕生所で御影堂が在り、御影堂の下に
は戒壇巡りが在る。此処は「悪行の在る者は此の地下か
ら出られない」と言はれる。
(所感)鷹鳩と舞ふ影を地に善通寺 稜子
御本尊 薬師如来
御詠歌 われすめば よもきえはてじ ぜんつうじ
ふかきちかひの のりのともしび
![](https://blogimg.goo.ne.jp/user_image/71/aa/f488b5360d66f31a3e95f64af617f189.jpg)
四国霊場第76番 金倉寺
順拝日 20,3,17、
由緒等 金倉寺は智証大師の祖父和気道麿(道善)によって宝亀
5年(774)開創され、道善寺と称していた。智証大
師は唐より帰国後しばらくこの寺にすまはれ、先祖の菩
提にと、唐の青龍寺を模して伽藍の造営に着手し、4年
後に落成した。仁寿元年(851)には勅願寺となり、
延長6年(928)醍醐天皇が金倉の郷に在るので金倉
寺に改称した。その頃寺は南北8km東西4kmの広大の寺
域に132の僧坊を有して盛んであった。
明治31年から4年間、乃木将軍が寺の客殿に住み善通
寺の師団本部へ馬で通われた。寺域には銅像が在り、軍
帽等の遺品、直筆の山号額も見られる。東京よりの夫人
に会はず、夫人は松の下でたたずんでいたとの事よりこ
の松を「乃木将軍妻返し松」と呼んでいる。
御本尊 薬師如来
御詠歌 まことにも しんぶつそうを ひらくれば
しんごんかじの ふしぎなりけり
![](https://blogimg.goo.ne.jp/user_image/02/e3/5baf4dcd9dda326cd135cc6e0084d7d8.jpg)
四国霊場第77番 道隆寺
順拝日 20,3,17、
由緒等 天平勝宝元年(749)のころ、この付近は一大桑園で
あった。此の桑園で和気道隆は誤って乳母を弓で射って
しまった。嘆き悲しんだ道隆は其の供養のために桑の大
樹を伐って薬師如来の小像を刻み、小堂を建てて安置し
た。是が此の寺の草創と伝える。
その後、弘法大師が留錫し、薬師如来を刻んで小像を胎
内に納め本尊とした。
「眼なおし薬師さま」として信仰されている。
寺域に多数の観音像が列座している。西国、秩父、四国、
の3霊場の観音様合計255体の列座で壮観である。
讃岐富士(飯野山)が眼前に出来る。
御本尊 薬師如来
御詠歌 ねがひをば ぶつどうりうに いりはてて
ぼだいのつきを みまくほしさに
![](https://blogimg.goo.ne.jp/user_image/1b/2d/ae25fd76d76c2aa9be65311571896a7f.jpg)
四国霊場第78番 郷照寺
順拝日 20,3,17、
由緒等 霊亀年間(715~17)行基菩薩により開創され、仏
光山道場寺と名付けられ、御本尊の阿弥陀如来は行基菩
薩の作と伝える。後に弘法大師が留錫して荒廃した伽藍
を改築し霊場に定めた。更に後に一遍上人が伽藍を再興
した。
大師堂の手前には3万体の万体観音を安置した洞窟があ
る。
42歳の大師の自刻像を安置し、「厄除け大師」の名が
在り、「心はすなはち本尊」の大師の言葉も残されてい
る。
御本尊 阿弥陀如来
御詠歌 おどりはね ねんぶつとなふ どうじょうじ
ひょうしをそろへ かねをうつなり
![](https://blogimg.goo.ne.jp/user_image/5e/4f/70ca5c439c746fb9c50a989b26ba62a1.jpg)
探梅の冬の時期、梅が咲き始めた。冬至梅の名に依る速さかもしれ
ない。紅梅も蕾が膨らんできた。春が駆け足で来るを感ずる。
![](https://blogimg.goo.ne.jp/user_image/63/b1/19ff27483cf7c75becc999c5734dc3ca.jpg)
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