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富士市今泉の昔話(166)清岩寺の由緒(6)

2015年11月14日 21時04分48秒 | 昔話
富士市今泉の昔話(166)清岩寺の由緒(6)

清岩寺は開創(1580)以来400年余を経過し、寺内には多くの墓石・石塔・石造物があるため列記してみたい。墓石は経年のため字が判別できぬものがあり、過去帳をお見せいただき補記してみた。

墓石

 開基墓

 中村彦治良吉久 77歳 慶長10乙己12月17日没



 孝子墓

 中村五郎右衛門
 「朱印状」
  駿河国富士郡今泉村農民五郎右衛門父母に孝を尽くし行跡宜敷 其上村中の助をなすの由
  今度国廻の輩演説之 依之其所作來田畑九拾石事 永代五郎右衛門下授之條全可収納物也
   天和2年3月22日      朱印綱吉

 「孝子今泉村五郎右衛門伝」 林常春
 「徳川実紀」 常憲院殿御実紀 巻5 
  --これ 当家の世となり孝子 節婦を 表せらるるのはじめなり。

  
 孝子の名は今に語り継がれ、今泉小学校の東南に「孝子田」の名を残し、新橋の地に大きな
 「孝子碑」(徳川家達公爵の題額を得て大正3年に新橋の地に建てられたが、時代の変化に より昭和33年に所縁の今泉小学校校庭に移設)が建てられている。         



 篤行墓

 中村三郎衛門(駿河誌 日尾氏 中村三郎衛門について 借用)
 中村家は代々名主を務め開基吉久より三郎衛門を代襲しており其の篤行も色々と伝承されて いる。豊水碑 は特筆される物であり、それぞれを列記してみる。
 「豊水碑」文政11年(1828)三郎衛門吉敏建。父三郎衛門による新堀の功を彰記。
  今泉耕地3000石の用水を和田川より本国寺寺内で分岐するにつき、本国寺の好意と共  に新川の掘削・整備に代を重ねた三郎衛門の努力が大きい。
  宝永5年1月24日(1708)の本国寺と三郎衛門以下4人の署名の契約書より新川の  工事が始められている。工事は改修も重ねつつ文政7年(1824)で完了している。
  代を重ねて100年を超す努力の成果である。
 文化3年(1806)吉敏 愛鷹捕馬役軽減訴願27歳。捕馬役全員に扶持米給付となる。
 文政12年(1829)吉敏 助郷費軽減訴願50歳。300石20年間休年軽減認可。
 文政13年(1830)吉敏隠居、米右衛門となる。
 


 筆子塚

 仁藤長兵衛(長綱)嘉永元年5月5日没。62歳。
 幕末の頃、勉学の場として寺小屋があり各地に寺小屋が設けられている。寺小屋に於いて師 匠が没した時生徒が費用を出し合つて墓を建てる事があり、これを筆子塚といい墓に刻まれ ている。(駿河誌 福澤氏 筆子塚に関し  借用)
 富士郡誌に今泉村の寺小屋の記があり、中に「仁藤長兵衛」の記がある。
     寺小屋の時期  自文久3年(1910)至慶応2年(1913)
     生徒      男  50    女  30    合計80人
 寺小屋の場所は寺市場の坂の頂部で善得寺道が坂に当つた場所の道の東側である。家は大き くなかつたため、場所は大きな家を借りたかまたは幾組かに分けての勉強と思はれる。
 墓には辞世の句がある。  転寝(うたたね)の夢しすきけり時鳥

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