富士市今泉の昔話(28)善得寺考 試掘(2)
一次試掘状況の概況に続き、結果を市の教育委員会
の報告並びに図面をお借りし纏めて見たい。
曾利式・勝坂式の縄文土器片の他、律令期の竪穴住
居跡のカマドの粘土及び焼土を検出したが撹乱が激
しく、プランの確定には至らなかった。
また、礎石跡と推定される遺構が4カ所確認された。
これらは東西3.5m、南北3.5mで正方形のプ
ランを呈する。しかしながらこの遺構に伴う遺物は
なく時期的の物は不明である。(以上市報告書)
4個の礎石は有り難く、結論は戴けなかった為、私
見の検討を進めて見る。
60cm径の柱4本は普通の民家では考えられない。
此の地で大型の建造物は過去に色々とある。先ずは
善得寺、更に秀吉の北条征伐時の接待御殿、次に家
康の善得寺御殿、また駿河大納言の御茶屋御殿があ
るが、構造・配置より善得寺の鐘楼・塔楼と考えら
れる。
更に配置よりは鐘楼と考える。先の七堂伽藍の配置
より此処は庫裏と方丈との間で時鐘の位置に適って
いる。寺を建てる時に鬼門封じが普通考えられ、鐘
楼も此の為に東北の位置に置かれ、将に此の位置で
ある。掘立の鐘楼の柱跡と私見する。
![](https://blogimg.goo.ne.jp/user_image/4a/b6/a333fe817f5027be34dbdbeab147d5c8.jpg)
![](https://blogimg.goo.ne.jp/user_image/42/fd/af9a092475c331609a66e0be4ecfac9d.jpg)
4ケの礎石は鐘楼と考え、妙心寺等を調査し柱の太
さ及び正方形の配置は一致した。然しながら基壇が
見られなかったのは調査が部分的の為とも考えられる。
妙心寺の写真を示すが袴腰はなかった。
![](https://blogimg.goo.ne.jp/user_image/63/42/a5f0899fabb40e9300a8a2d31633b3ed.jpg)
付近に礎石瓦の出土はなかった為瓦葺きではなく、
萱葺きだったかもしれない。建長寺の萱葺きの鐘楼
の写真を示す。
![](https://blogimg.goo.ne.jp/user_image/13/b8/c71b08100d0762dce56d695263008b34.jpg)
市の報告書には無いが、不思議の球状の礫の多数の
固まっての出土。多量の20cm以上の厚みの石化
した灰の写真を示す。図の○印部分、尚の調査を
お願いしたい。
礫は鐘楼の東北鬼門の場所であり、鬼門封じの物と
考えると興味がわく。寺の鬼門封じとして鐘楼や
開山堂の配置が在るが、猿の像の設置、水晶の埋設、
桃の木の植え付け等も見られるとの事である。
![](https://blogimg.goo.ne.jp/user_image/7d/c9/a4be8a294a3c3a7f7e33aac14dc23bcd.jpg)
2次試掘
平成18年5月23日より5月29日まで
市の教育委員会に依り、1次の北の空地を試掘して
戴いた。写真の如く南北に2本のトレンチの掘作し
たが、奈良時代の竪穴住居跡を1軒の確認のみで、
他の遺構は確認されなかった。
子供の頃この辺でよく黒曜石の鏃石を拾った。
![](https://blogimg.goo.ne.jp/user_image/31/1f/3be00495f2bda76b6476530f792d187f.jpg)
![](https://blogimg.goo.ne.jp/user_image/7f/b1/8d82646a6138851bf6ee4a4b7cf4d336.jpg)
![](https://blogimg.goo.ne.jp/user_image/59/a6/a2dbd0e0a852bf1c2886dac419ad7877.jpg)
試掘は、1次と2次で終わり、4ケの柱基礎
のみ確認出来た。基礎は写真の如く元に戻す
ことなく、砂で覆い埋め戻しした。出来る
ならば元の姿に戻し、遺跡として確認し、善
得寺を偲ぶ物にして頂けると有り難い。
![](https://blogimg.goo.ne.jp/user_image/69/0d/0254022c182b5b37d36ca426c104750c.jpg)
一次試掘状況の概況に続き、結果を市の教育委員会
の報告並びに図面をお借りし纏めて見たい。
曾利式・勝坂式の縄文土器片の他、律令期の竪穴住
居跡のカマドの粘土及び焼土を検出したが撹乱が激
しく、プランの確定には至らなかった。
また、礎石跡と推定される遺構が4カ所確認された。
これらは東西3.5m、南北3.5mで正方形のプ
ランを呈する。しかしながらこの遺構に伴う遺物は
なく時期的の物は不明である。(以上市報告書)
4個の礎石は有り難く、結論は戴けなかった為、私
見の検討を進めて見る。
60cm径の柱4本は普通の民家では考えられない。
此の地で大型の建造物は過去に色々とある。先ずは
善得寺、更に秀吉の北条征伐時の接待御殿、次に家
康の善得寺御殿、また駿河大納言の御茶屋御殿があ
るが、構造・配置より善得寺の鐘楼・塔楼と考えら
れる。
更に配置よりは鐘楼と考える。先の七堂伽藍の配置
より此処は庫裏と方丈との間で時鐘の位置に適って
いる。寺を建てる時に鬼門封じが普通考えられ、鐘
楼も此の為に東北の位置に置かれ、将に此の位置で
ある。掘立の鐘楼の柱跡と私見する。
![](https://blogimg.goo.ne.jp/user_image/4a/b6/a333fe817f5027be34dbdbeab147d5c8.jpg)
![](https://blogimg.goo.ne.jp/user_image/42/fd/af9a092475c331609a66e0be4ecfac9d.jpg)
4ケの礎石は鐘楼と考え、妙心寺等を調査し柱の太
さ及び正方形の配置は一致した。然しながら基壇が
見られなかったのは調査が部分的の為とも考えられる。
妙心寺の写真を示すが袴腰はなかった。
![](https://blogimg.goo.ne.jp/user_image/63/42/a5f0899fabb40e9300a8a2d31633b3ed.jpg)
付近に礎石瓦の出土はなかった為瓦葺きではなく、
萱葺きだったかもしれない。建長寺の萱葺きの鐘楼
の写真を示す。
![](https://blogimg.goo.ne.jp/user_image/13/b8/c71b08100d0762dce56d695263008b34.jpg)
市の報告書には無いが、不思議の球状の礫の多数の
固まっての出土。多量の20cm以上の厚みの石化
した灰の写真を示す。図の○印部分、尚の調査を
お願いしたい。
礫は鐘楼の東北鬼門の場所であり、鬼門封じの物と
考えると興味がわく。寺の鬼門封じとして鐘楼や
開山堂の配置が在るが、猿の像の設置、水晶の埋設、
桃の木の植え付け等も見られるとの事である。
![](https://blogimg.goo.ne.jp/user_image/7d/c9/a4be8a294a3c3a7f7e33aac14dc23bcd.jpg)
2次試掘
平成18年5月23日より5月29日まで
市の教育委員会に依り、1次の北の空地を試掘して
戴いた。写真の如く南北に2本のトレンチの掘作し
たが、奈良時代の竪穴住居跡を1軒の確認のみで、
他の遺構は確認されなかった。
子供の頃この辺でよく黒曜石の鏃石を拾った。
![](https://blogimg.goo.ne.jp/user_image/31/1f/3be00495f2bda76b6476530f792d187f.jpg)
![](https://blogimg.goo.ne.jp/user_image/7f/b1/8d82646a6138851bf6ee4a4b7cf4d336.jpg)
![](https://blogimg.goo.ne.jp/user_image/59/a6/a2dbd0e0a852bf1c2886dac419ad7877.jpg)
試掘は、1次と2次で終わり、4ケの柱基礎
のみ確認出来た。基礎は写真の如く元に戻す
ことなく、砂で覆い埋め戻しした。出来る
ならば元の姿に戻し、遺跡として確認し、善
得寺を偲ぶ物にして頂けると有り難い。
![](https://blogimg.goo.ne.jp/user_image/69/0d/0254022c182b5b37d36ca426c104750c.jpg)
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