富士市を中心の郷土史

昔話、城、寺、歴史。

富士市今泉の昔話(28)

2012年11月09日 21時33分01秒 | 昔話
富士市今泉の昔話(28)善得寺考  試掘(2)

一次試掘状況の概況に続き、結果を市の教育委員会
の報告並びに図面をお借りし纏めて見たい。

曾利式・勝坂式の縄文土器片の他、律令期の竪穴住
居跡のカマドの粘土及び焼土を検出したが撹乱が激
しく、プランの確定には至らなかった。
また、礎石跡と推定される遺構が4カ所確認された。
これらは東西3.5m、南北3.5mで正方形のプ
ランを呈する。しかしながらこの遺構に伴う遺物は
なく時期的の物は不明である。(以上市報告書)

4個の礎石は有り難く、結論は戴けなかった為、私
見の検討を進めて見る。
60cm径の柱4本は普通の民家では考えられない。
此の地で大型の建造物は過去に色々とある。先ずは
善得寺、更に秀吉の北条征伐時の接待御殿、次に家
康の善得寺御殿、また駿河大納言の御茶屋御殿があ
るが、構造・配置より善得寺の鐘楼・塔楼と考えら
れる。
更に配置よりは鐘楼と考える。先の七堂伽藍の配置
より此処は庫裏と方丈との間で時鐘の位置に適って
いる。寺を建てる時に鬼門封じが普通考えられ、鐘
楼も此の為に東北の位置に置かれ、将に此の位置で
ある。掘立の鐘楼の柱跡と私見する。





4ケの礎石は鐘楼と考え、妙心寺等を調査し柱の太
さ及び正方形の配置は一致した。然しながら基壇が
見られなかったのは調査が部分的の為とも考えられる。
妙心寺の写真を示すが袴腰はなかった。




付近に礎石瓦の出土はなかった為瓦葺きではなく、
萱葺きだったかもしれない。建長寺の萱葺きの鐘楼
の写真を示す。



市の報告書には無いが、不思議の球状の礫の多数の
固まっての出土。多量の20cm以上の厚みの石化
した灰の写真を示す。図の○印部分、尚の調査を
お願いしたい。
礫は鐘楼の東北鬼門の場所であり、鬼門封じの物と
考えると興味がわく。寺の鬼門封じとして鐘楼や
開山堂の配置が在るが、猿の像の設置、水晶の埋設、
桃の木の植え付け等も見られるとの事である。



2次試掘

平成18年5月23日より5月29日まで
市の教育委員会に依り、1次の北の空地を試掘して
戴いた。写真の如く南北に2本のトレンチの掘作し
たが、奈良時代の竪穴住居跡を1軒の確認のみで、
他の遺構は確認されなかった。
子供の頃この辺でよく黒曜石の鏃石を拾った。







試掘は、1次と2次で終わり、4ケの柱基礎
のみ確認出来た。基礎は写真の如く元に戻す
ことなく、砂で覆い埋め戻しした。出来る
ならば元の姿に戻し、遺跡として確認し、善
得寺を偲ぶ物にして頂けると有り難い。























































































最新の画像もっと見る

コメントを投稿