富士市今泉の昔話(30)外伝 善得寺城 歴史
今川範政は禅秀の乱での功績により、義持より下方12郷を与え
られ、守護大名より変身した。
応永14年(1417)
今川範政築城。今川のこの頃の築城は、「掻きあげ式」築城
が多く、壕を掘り、その掻きあげの土で土居をつくり、城郭を
造っている。
文明7年(1475)
今川内紛調停の功により、早雲興国寺城と下方12郷(善得
寺城を含むと私見)を受ける。
応永24年頃(1481頃)
古郡光貞の三代主水光資は須津中里村に安堵地を得て、今川上総
介に被官し、荻野原の善得寺城を守護。
古郡氏は都留市古郡を領していたが、和田義盛の乱に関係した為、
鎌倉より逃れて古郡で滅亡した。
残った一党が和田義盛の領地だった此の地に逃れ、上和田に在る義
盛神社を祀ったとの伝承が在る。(古郡氏資料)
天文年間(1532-35)
今川の支城。
天文4年(1535)
武田信虎駿河侵攻。下方を領す。
天文6年(2537)
信虎の長女(於豊)義元に嫁す。娘の化粧料として下方を義元に
贈る。
甲駿同盟に反発、北条氏綱駿河侵攻。 河東1乱第1次、6年2
月―8年7月。
北条氏綱、善得寺城占領。寺市場の善得寺を焼く。
天文8年(1539)
今川、8月河東を回復。
義元、善得寺城修築。(石垣,塀、惣構を進め、北条えの防備を
強化と私見)
「惣構」等整備図私見。兵農分離の考えで、惣構の中に武家屋敷を考え
たとし、諸小路を記した。惣構としては、船久保の谷依り呼坂の崖を経
て鎖線の如く、郷蔵更に北廓に結んでいる。
![](https://blogimg.goo.ne.jp/user_image/10/3f/9ae299542e5eec3187f1e2778857c779.jpg)
天文9年(1540)
善得寺を瀬古の地に再興。
善得寺城への揚げ水整備。
天文14年(1545)
河東第二次大乱、7月ー11月。
氏康、河東侵攻するも、義元撃退。8月義元善得寺城着陣2万。
9月信玄今川との同盟に依り着陣、善得寺城に泊。
10月、吉原城自落、北条撤兵。
天文23年(1554)
北条、吉原城を本陣に兵3万余。
武田、加島の柳島を本陣として兵1万5千余。
今川、三河攻撃より反転して善得寺城に入る、兵4万。
善得寺にて、今川・武田・北條の三国会盟。
永禄12年(1569)
2月信玄、駿河第二次侵攻。善得寺、善得寺城焼き打ちされる。
信玄退去後、4月北条は蒲原城・善得寺城など12塁を固め武
田に対抗、兵1万6千を配し、善得寺城に大藤佐衛門を置く。
信玄第三次駿河侵攻。
元亀元年(1570)
1月信玄駿河侵攻(4次)。
4月信玄駿河侵攻(5次)。
元亀2年(1571)
武田・今川和睦。河東一帯は武田領となる。横尾郷は穴山梅雪へ。
甲州人多く移住。
天正5年(1577)
甲相和睦。
善得寺城、再び北条へと私見。北条七郎氏孝・内藤大和の守備。
天正14年(1590)
秀吉に依る北条征伐に当たり、家康北条の支城を接収。
家康善得寺城廃し、道路等整備。
一閑に掛川の庄屋屋敷の古色を見た。太柱・太梁の黒黒の威を感じ
たので昔を偲ぶ一景としたい。
![](https://blogimg.goo.ne.jp/user_image/38/c9/d02736a20d87a6d20d49036befd72e7c.jpg)
今川範政は禅秀の乱での功績により、義持より下方12郷を与え
られ、守護大名より変身した。
応永14年(1417)
今川範政築城。今川のこの頃の築城は、「掻きあげ式」築城
が多く、壕を掘り、その掻きあげの土で土居をつくり、城郭を
造っている。
文明7年(1475)
今川内紛調停の功により、早雲興国寺城と下方12郷(善得
寺城を含むと私見)を受ける。
応永24年頃(1481頃)
古郡光貞の三代主水光資は須津中里村に安堵地を得て、今川上総
介に被官し、荻野原の善得寺城を守護。
古郡氏は都留市古郡を領していたが、和田義盛の乱に関係した為、
鎌倉より逃れて古郡で滅亡した。
残った一党が和田義盛の領地だった此の地に逃れ、上和田に在る義
盛神社を祀ったとの伝承が在る。(古郡氏資料)
天文年間(1532-35)
今川の支城。
天文4年(1535)
武田信虎駿河侵攻。下方を領す。
天文6年(2537)
信虎の長女(於豊)義元に嫁す。娘の化粧料として下方を義元に
贈る。
甲駿同盟に反発、北条氏綱駿河侵攻。 河東1乱第1次、6年2
月―8年7月。
北条氏綱、善得寺城占領。寺市場の善得寺を焼く。
天文8年(1539)
今川、8月河東を回復。
義元、善得寺城修築。(石垣,塀、惣構を進め、北条えの防備を
強化と私見)
「惣構」等整備図私見。兵農分離の考えで、惣構の中に武家屋敷を考え
たとし、諸小路を記した。惣構としては、船久保の谷依り呼坂の崖を経
て鎖線の如く、郷蔵更に北廓に結んでいる。
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天文9年(1540)
善得寺を瀬古の地に再興。
善得寺城への揚げ水整備。
天文14年(1545)
河東第二次大乱、7月ー11月。
氏康、河東侵攻するも、義元撃退。8月義元善得寺城着陣2万。
9月信玄今川との同盟に依り着陣、善得寺城に泊。
10月、吉原城自落、北条撤兵。
天文23年(1554)
北条、吉原城を本陣に兵3万余。
武田、加島の柳島を本陣として兵1万5千余。
今川、三河攻撃より反転して善得寺城に入る、兵4万。
善得寺にて、今川・武田・北條の三国会盟。
永禄12年(1569)
2月信玄、駿河第二次侵攻。善得寺、善得寺城焼き打ちされる。
信玄退去後、4月北条は蒲原城・善得寺城など12塁を固め武
田に対抗、兵1万6千を配し、善得寺城に大藤佐衛門を置く。
信玄第三次駿河侵攻。
元亀元年(1570)
1月信玄駿河侵攻(4次)。
4月信玄駿河侵攻(5次)。
元亀2年(1571)
武田・今川和睦。河東一帯は武田領となる。横尾郷は穴山梅雪へ。
甲州人多く移住。
天正5年(1577)
甲相和睦。
善得寺城、再び北条へと私見。北条七郎氏孝・内藤大和の守備。
天正14年(1590)
秀吉に依る北条征伐に当たり、家康北条の支城を接収。
家康善得寺城廃し、道路等整備。
一閑に掛川の庄屋屋敷の古色を見た。太柱・太梁の黒黒の威を感じ
たので昔を偲ぶ一景としたい。
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