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富士市を中心の郷土史

昔話、城、寺、歴史。

富士市今泉の昔話(134)

2014年12月13日 08時00分34秒 | 昔話
富士市今泉の昔話(134)年譜(12)

寛永 3 1626  1月11日、忠長甲府より駿府入り。
           忠長駿河大納言になる。
           善得寺御殿は駿河大納言の御茶屋御殿となる。
           駿河大納言はこの御殿での生活が多く、天下の副将軍と言はれ
           往来の大名の挨拶の滞在で吉原が賑はつたとの伝承がある。
           御殿の四方には大木戸が設けられ、御殿に入る坂本の坂 寺市
           場の坂 清岩寺の坂は石畳で整備された。
{四方の大木戸の2所の坂本坂の坂下、清岩寺坂の頂は明治初頭まであったとの事で
あるが、西・北の2所は場所が不明である。清岩寺前の物は1尺角の冠木門で、その基
礎の2ケは清岩寺の石垣に組み込まれたと外祖父より口伝されているが1ケしか確認で
きていない。清岩寺の参道の石垣に確認できる。清岩寺前の石畳の石は外された後1部
は参道の飛石として残されていたが最近残念ながら散逸した。石畳の石は外の部で残っ
ていると考えられるが確認できていない。}
寛永 4 1627  古郡重政、駿州代官として岩本陣屋に。
寛永 8 1631  駿河大納言、乱行や武田家旧臣の召し抱えによる謀反の噂等によ
           り家光の勘気に触れる。
寛永 8 1631   5月18日、忠長駿府より甲府へ。
寛永 9 1632   10月18日、忠長改易。甲府より高崎え。
寛永10 1633   忠長自刃(28歳)。家臣団離散。罰は家臣団に及び譜代は
            西へ、外様は東へ放逐された。
            茶屋御殿に在任に有泉大学と稲葉但馬守(内記正利?)があり、
            有泉は江戸へまた稲葉内記は九州へ送られている。此の離散後
            の屋敷の処理は、近くの清岩寺の整備の折で有泉の屋敷は寺の
            庫裏に、稲葉の屋敷門は寺の山門に活用された。山門は今に残り、            春日の局の二男の屋敷門とすると由緒が残る。この折長男の
            正勝は小田原で8万8千石となっている。
            末寺善徳寺(清見寺資料)
寛永12 1635   参勤交代開始。
寛永16 1639   大津波の為元吉原宿が中吉原に移転。保泉寺以外全寺移転。
寛永17 1640   善得寺村村高3545石の大村。
            依田原村是より分離800石。
正保 4 1647   十王子神社前に庚申塔建設。下方庄、横尾郷の記あり。建設
            者と思はれる10人余の姓名があり、是は上柳家の石碑の姓
            名と同じく甲州より移住の郷士と考えられ、梅雪時代よりの
            移住者が定着し現在まで続いた。現住の人々と何時の日か
            照合したい
            此の地区最古の庚申塔である。
            姓名の内仁藤・蓮池は我が家に関係あり、此の塔は上の山地
            区への水源の改善記念と外祖父より聞いている。
慶安 4 1651   12月28日、清岩寺火災全焼。
万治 2 1659   供養碑(在上柳家)、樋詰の滝行地より移転。横尾庄、勢子
村の 記 あり。前記の庚申塔と同じく10名余の姓名が残さ
れている。
万治 3 1660   富士川大洪水、既設堤破損。

冬枯れの庭の北に雪富士が聳えている。林地の冬の景を続けて見る。
冬紅葉の林道の景、紅葉の景の素晴らしさと共に春の芽立ちの侯に一帯が桃色を呈する景も素晴らしい。



林地の一景、大正10年に植え付け、現在95歳の林地 大正の林地として看板を立てた。
林地の標として武者小路先生の「仁者愛山」碑をを立てた。



















富士市今泉の昔話(133)年譜(11)

2014年12月06日 08時06分23秒 | 昔話
富士市今泉の昔話(133)善得寺に関する当地の年譜(11)

年次    西暦     事項
慶長19 1614  「1月28日、大御所江戸より善徳寺に着かせたまふ。」
           (実記)
            10月1日、大阪冬の陣始まる。
元和 元 1615  4月1日、大坂夏の陣始まる。
           5月8日、豊臣氏滅亡。
           「10月1日、大御所善徳寺に着かせたまふ。」(実記)
           「10月2日、善得寺に延留江戸へ。」(実記)
           「12月15日、三島をいでたまひ瀬古善徳寺に着かせ
            たまふ。」(実記)
            「12月16日、善徳寺より駿府へ帰らせたまふ。」(実記)
            善得寺御殿にて家康仙頭の地(三島)を隠居所と定む。
            此の間に善徳寺の再建が許された。
            家康の駿府・江戸往復の途次の宿舎として御殿場に御殿場
            御殿新築。東西90m、南北82m。一度も使用されなかった。
元和 2 1616  新善徳寺再建。(延寿堂跡に寺域東西40間南北30間)
           小庵は今泉宝鑑によれば9尺2間。檀家寺として。
           10代法岩寿公首座入山。
{善徳寺は永禄12年(1569)に信玄により焼かれて以来1616年新築されるまで
47年間所要している。天正15年(1587)東杲禅師が太源禅師の33回忌の法要を
為し、資材を集めつつ再建の許可を家康に求めていたと思はれるが中々許可が得られなか
った様である。是は場所の事或いは規模の事或いは宗派の事もあったかもしれない。清岩
寺が同じ地に1580年に開基されている事より禅宗にの応援が少なくなっての事かも解
らない。資材を徴用され、文禄3年(1594)東杲禅師が清見寺で没してより、再建の
動きは止まっていたのかも解らない。10代法岩首座が檀家を集め、構想を持ち再建の
運動を再開したと考える。首座の法系が不知であり調査が必要である。何にしても大壇越
のなくの再建は大変だったと思はれる。}

           1月211日、家康 田中にて鷹狩り 急病。
           4月17日、家康急死。
           4月19日、久能山に葬る。
元和 3 1617  忠長甲府領主と為る。11歳。
           3月15日、日光への家康の神柩善徳寺御殿に泊、初夜法要。
            一行300余騎、雑兵1000人。
           4月4日、日光到着。
           「今夜の御泊は富士山の麓善徳寺なり。」(徳川実記)
           「神柩吉原を出て浮島ケ原経由三島へ。」(実記)
{吉原の地名がある。善徳寺の場所を全汎的に吉原と呼称していたと思はれ、他の記述と
共に秀吉の為の吉原御殿が此処に在った証と考えられ、次の移りを想定する。
 秀吉の為の吉原御殿―家康の善徳寺御殿―忠長の茶屋御殿―廃却 }
元和 7 1622  古郡重高により岩本山の南西端に雁堤の一番出し、二番出し完成。
           これにより富士川本流の東流が緩和され、岩本・松岡以南の水害
           を防いだ。駿州代官の功となった。
元和 8 1623  見性院(梅雪夫人、信玄の第二女)江戸にて死す。(甲斐国志)
寛永 元 1624  忠長駿河国守と為る。旧武田家臣は隋身。
寛永 2 1625  古郡重政、忠長の付け人と為る。駿州代官初代。


ブログ開設し昔話を続けること130回余、年譜の区切りとなる年末で一区切りをするこ
とにした。日を改めて善得寺及び善得寺城につき私説を再記して見たい。
次週には霜げると思はれる名残の花々を列する。






















富士市今泉の昔話(132)善得寺に関する当地の年譜(10)

2014年11月29日 12時51分04秒 | 昔話
富士市今泉の昔話(132) 善得寺に関する当地の年譜(10)

「 古文書等の記述」(補記){私見}

年次    西暦    事項
天正19 1591   秋山夫人(下山の局)卒。27歳。
文禄 元 1592  武田信吉 佐倉10万石に。
           3月、名護屋にてお牟須 難産の為母子死去。
文禄 3 1593  1月15日、宗杲(東谷禅師)清見寺にて死す。    
           善得寺は無住となり、善得寺再興の動きは消え、仮堂は木像
           と共に浮浪者の火で焼失。
           鷹狩りの為の御殿家康整備。(山口氏文)吉原御殿整備と私見。
慶長 3 1598  秀吉死去。
慶長 4 1599  御朱印に勢子村の記あり。
慶長 5 1600  川成島に渡船場。東海道に吉原宿制定(元吉原の場所)。

           関原の合戦、東軍勝利。
慶長 8 1603  家康征夷大将軍となる。江戸開府。
           家康は穴山氏所縁の秋山夫人(下山局)との間の家康の5男を
           武田信吉として水戸25万石に封じ、梅雪との約の武田の家名
           を残したが、この年夭折。9月12日、21歳。
慶長 9 1604   御朱印に善得寺村あり。
慶長10 1605   10月4日、秀忠征夷大将軍に。
慶長10 1605   12月17日、清岩寺開基中村彦次郎吉久没。71歳。(墓)
慶長11 1606  3月18日、家康三島より清水へ。(善徳寺の記なし)
           (徳川実記)
            朝鮮通信使初めて来朝。文化8年(1811)まで12回。
            一行400人。
慶長12 1607   7月、駿府城落成。家康大御所として移る。
           12月、角倉了以により富士川通運。
           12月12日、駿府より江戸へ。(善得寺の記なし)
            (徳川実記)

            興国寺城廃城。
慶長14 1609  家康この年以降善得寺御殿(瀬古御殿)にて鷹狩り約10回。
           江戸・駿府の往復の途次宿泊所として使用。
{善得寺御殿は先に秀吉の接待に建てた吉原御殿を整備した御殿と考える。連泊の事もあ
り好かれた宿舎であり、あるいはお局に関係あったかもしれない。この建物は後に駿河大
納言の御茶屋御殿となり、大納言の失脚の後に廃却されている。遺物・遺跡は全て失はれ
ているが、吹上の天神社に桃の形の池を持つ蹲がある。此の石に記は無いが、長寿を表す
桃の形よりこの御殿に関係の物と私見する。}
            「10月26日、大御所江府におはしまさんとて御発輿あり、
             けふ善得寺に至らせたまひお鷹狩りあり。」(徳川実記)
            (慶長政治録)
            「11月5日、お鷹狩りを重ねて三島に着かせたまいしに俄に」
             (徳川実記)
            「11月26日、関東遊猟 に駿府出発 善得寺に至る。」
            (武徳編年集成)
慶長15 1610  「10月15日、大御所清水より善得寺にならせたまふ」18日
            まで滞在。「10月19日、大御所善得寺より三島に着かせら              る。」
            (徳川実記)(集成)
慶長16 1611   「10月7日、大御所勤めて今泉につきたまふ。善得寺にて狩。」
            (実記)
            「住職(東泉院)手製の酢を献じ善得寺酢と言ふ。」(実記)
            「10月8日、三島に着かせたまふ。」(実記)
            「11月22日、三島より今泉に至らせたまふ。」(実記)
慶長17 1612   「1月25日、家康富士野にて鷹を放つ。」(駿府政治録)
            「2月15日~17日、吉原泊清水へ。」(岳南史)
            「10月2日、駿城を御発輿江戸へ。道すがら狩。」
             (善得寺の記なし。)
            「11月2日、駿府へ帰らんとて江戸を御発輿。」
            (善得寺の記なし。)
慶長18 1613   「9月18日、清水より善得寺に着かせたまふ。」(実記)
            「9月19日、雨により善得寺に御滞留。」(実記)

 山茶花が多くの花をつけている、オジギソウも可愛い花をつけている。



















富士市今泉の昔話(130)

2014年11月22日 08時29分30秒 | 昔話
富士市今泉の昔話(130)善徳寺に関する当地の年譜(9)

年次   西暦    事項
天正 6 1578  3月13日、謙信病没。
           御舘の乱(景勝と景虎との相続争い)。北条景虎支援。
           千本松原の合戦に武田敗走。
天正 7 1579  信康切腹。
天正 8 1580  清岩寺開基(田宿より)。武田家臣の退去後の土地を求めた。西
           半分臼井氏、東半分竹原氏。
天正 9 1581  新府城なり勝頼入城。
天正10 1582  2月、織田、武田を攻撃。勝頼天目山にて自刃。
           信長富士遊覧の折蒲原に蒲原御殿を設営。
           武田氏滅亡。武田領より徳川領と為る。武田領としては15年
           ほどなり。
           6月、本能寺の変。信長死す。
           6月、梅雪山城にて横死。陰謀説、身代わり説あり不明。山城に
           墓あり。
天正11 1583  9代東谷和尚(宗杲)は建福寺住職16年を経たが、3月高遠を
           去り善得寺の跡地に立った。荒れた跡地に善得寺の再興を志した。
            善得寺は景筑禅師の客死より8年間無住で過ぎた。
            9月13日、秋山夫人が浜松にて万千代(武田信吉)を生んだ。
            家康の5男である。(甲斐国志)生誕地に異説。
天正12 1584   3月7日、東谷和尚は跡地に半間の小屋を為し、先師の木像を
            安置。(吹上の庚申堂の地か?)再建を志す。
            「上には瓦の頭を覆うなく、下には寸度の足を立てるなく、日々
            古樹の下に蟄居し、夜夜礎石の上に安座す。」(香語)
            「野菜根を煮て、労を変わる奴隷無くして、血に泣いて瓦礫を
             拾捨し」(香語)

{梅雪は1571年に領地としてより間口割による移住を進めており、1584年までに
は相当数の移住畑作が進められたと思われる。公用地には代官所等が出来ていた筈である。
東谷禅師の労苦は非常の物とは考えられるが、発掘調査で瓦のない事共に香語の文は誇大
の描写と考えられる。庚申堂の地のみの努力と考える。}
天正13 1585   永明寺本堂再建。
            家康駿府の整備。
天正14 1586   3月9日、家康と氏政 黄瀬川にて対面。
天正15 1587  10月6日、善得寺跡の小庵にて東谷禅師雪斎33回忌法要。香語序
           文は有名で、善得寺の歴史を知る肝要となっている。
{東谷禅師は法要と共に善得寺の再建を志し、資材を集め始めたと考えられるが、今川・
武田共に滅び大壇越の得られる望みも少なく、再建にどのような構想を持ったか解らない。
この時点で武田の入植より10年経ており、此の周辺も民家・役所が並び、開墾した畑も広
がって居た筈であり、7堂伽藍を備えた大寺は構想し得なかったと考える。
吹上の東西6間、南北16間の庚申堂の地約100坪の広さに合う寺であり、此の広さに
置き得る資材だったと考える。然しながら、2~3年の間に努力して集めた資材を後日失
った落胆は大きかったに違いない。}
            穴山勝千代信治病死。これにより穴山家断絶。穴山家の家臣は
            徳川家に隋身。
天正18 1590   小田原征伐。秀吉下向。26万人の軍勢。
            2月、秀吉の宿舎として、家康は吉原御殿を築営。
            家康の命により松平家忠は吉原御殿を築営しているが、場所は
            明示されていない。
{吉原御殿の場所は明示されていないため、2説を聞いている。1説は現在の鈴川の砂山
の御殿の名の残る場所であり、他の1説は今泉の善得寺の跡の御殿の名の在る場所である。
此の場所はまた秀吉の富士川の渡河の場所と以降の三島御殿への経路との関係が考えらる。
船橋により富士川を渡ったとすると、実相寺の南の場所が言われており此処を起点とする
経路が書かれる。三島への経路として浜道・根方道・十里木道がありまた論が分かれる。
私案としては岩本より善得寺跡の吉原御殿を経て根方街道を三島へ進んだと考える。
吉原の名であるが、見附けの宿が移転して吉原宿に為った経緯はあるが砂山の地を吉原と
呼んだ確証とはならないと考える。一方善得寺跡の場所であるが、「徳川実記」にも家康
が江戸へ立つとき、善得寺を出て 今泉を出て 吉原を出て の各様の記述があり、今泉
を含んで吉原と呼んだ事があると考え吉原御殿の位置を私案した。
戦国時代には、富士川は岩本より東流し現在の和田川の位置に本流があり、別説の砂山
付近は現在の姿で無く富士川の本流の場所と考えられる。あっても砂山であり、砂嵐で宿
場の移設がある中で接待の御殿は無理と考える。善得寺跡は富士川に沿う高台で風光よく、
この後の家康の善得寺御殿(瀬古御殿)また駿河大納言の茶屋御殿に使われるとすると私
説が成り立つ。}
            資材徴発。根方街道の経路で無ければ、善得寺の再建資材は目
            に入らなかったとも思はれる。資材は石垣山の一夜城建設用と
            いわれているが、小田原の郷土史家に聞いたが運搬の事は聞き
            得ず、瓦も天正19年の銘があるとの事で、私案としては秀吉
            が運んだのではなく、家康が吉原御殿工事に徴発と考える。秀
            吉の吉田の滞在数日は吉田川の氾濫により、これに吉原御殿の
            工事の遅れがあった様である。
            再建資材を失った東谷禅師は失意により清見寺瑞雲院に。然し
            再建の大望を此の件だけで断念したとは思はれない。再建を
            願ったが認められない失意があったのかと考える。
            7月5日、北条降伏。
            8月1日、家康江戸に入府。中村一氏駿府城主と為る。
            12月29日、武田信吉、小金3万石に。 

時を得て一日を京に遊んだ。心に残る紅葉の 苔の寺巡りである。許可を得ての写経・法
話を含んでの拝観であったが素晴らしかった。





























富士市今泉の昔話(130)

2014年11月15日 09時41分57秒 | 昔話
  富士市今泉の昔話(130)善得寺に関する当地の年譜(8)

年次   西暦     事項
元亀 元 1570  4月信玄駿河出陣。
     4,23~ 7月28日、三條夫人死去。(50歳)
           8月末信玄甲州に。
元亀 2 1571  北条の撤退した駿河を信玄併合。
           武田今川和睦。河東一帯は武田領となる。1571年12月より
           1582年3月までの武田領であり、此の間に甲斐の士族が多く
           移住している。
            大淵に武田文書。
            大淵に法泉寺開基。
            今泉北部の各地に入植の子孫が多く、子供の節句の折には
            甲斐式の幟が多くみられる。各地に居住の小山、加藤、秋山等
            に甲斐よりの移住と聞く。
{梅雪は横尾郷の領主となると道路を整備し、甲州の郷士の移住を進めたと考えられる。
中心として10町歩に及ぶ善徳寺の跡地が整備された。表参道の坂本の道路、裏参道の
妙延寺の南の参道を清岩寺まで延長しての道路、これ等と直交する善徳寺の東廊・西廊の
跡の二本の道、これ等に囲まれる地域を公用とし、以外の道路沿いを一般の移住地とした
と考えられる。一般の移住地は地図の如く、「間口割」として数十軒が割り当てられて
いる。「間口割」とは所謂「鰻の寝床」と称される間口は狭く奥行きの長い割り当て方法
で、官役や賦課を間口数で決定する方法である。この宅地の奥に畑が各自に割り当てられ
ている。兵農分離以前の郷士が氏名して住み、横尾郷の碑に氏名が残されている。甲州
よりの移住の数軒に当たった所、系図を備えての飯富兵部や山県三郎兵衛の子孫の方が確
認できた。}




元亀 3 1572  東谷禅師(建福寺)妙心寺に入山。広済慈照禅師の勅謚を戴く。
           信玄正親町天皇の命により臨斉寺を再建。
           5月12日、玄洪 小田原の久翁寺にて義元の13年忌を行う。
           香語在り。早川殿の縁により氏真供養。
天正 元 1573  上洛の途次信玄死す。53歳。
           信長義昭を追放。
天正 2 1574  勝頼の弟信景得度し、三島に来住。
           旧武田家家臣川口氏を加え林光寺開山。
           林光寺より清岩寺2代欣誉上人入山。(善徳寺過去帳に浄土宗と
           して在録、兼務の事が在ったか?善徳寺の廃寺の折も清岩寺との
           関係が考えられる。)
天正 3 1575  景筑禅師小田原にて客死。8月21日。
           穴山梅雪徳川に隋身。この折家康に次の二女を側室として献じた。
            秋山越前守の娘、(長慶院殿)妙真院お都摩、秋山夫人または
            下山局として名を残す。家康の5男を為して約の如く武田の名
            を残したが夭折。
            市河十郎左衛門の娘(文処院殿)正栄院お牟須。家康の側室と
            なり朝鮮征伐の折同陣したが、難産の為母子ともに死去。
           9月、南松院(梅雪母の菩提寺)2世 明院祖芳和尚勅許を得て
           妙心寺に住職(玄肪と称す)。「瑞世」なり。
{今泉に「お局」の地名があり、伝承等を調べていたが、この「瑞世」に関して面白い事
を発見した。南松院に此の瑞世を祝う奉賀帳が残されており、筆頭に梅雪・お裏続いて
「お局並びに有泉」とあり、以下家臣が続いている。奉賀帳の「お局」は下山局と考えられ、
同時に記されている有泉は梅雪の代官として横尾郷に在り後記する吹上の地に住していた
とみられ、地名の由来が考えられる。}
           長篠の戦。
天正 4 1576   4月6日、恵林寺の信玄の葬儀に東谷禅師が掛真を勤めた。
             (高遠町誌より)
天正 5 1577   氏政の妹、勝頼に和を約す。駿河は武田、豆州は北条と約す。

山茶花が咲き始めた。是から色々賑やかになるのが楽しみ。ダチュラが遅い花の盛りに。