goo blog サービス終了のお知らせ 

富士市を中心の郷土史

昔話、城、寺、歴史。

富士市今泉の昔話(139) 春近し

2015年01月09日 19時36分51秒 | 昔話
富士市今泉の昔話(139)  春近し

寒気厳しいながら春の足音が聞こえ始めた。春に先駆けて蝋梅(素心・満月共に)が咲き始めた。毎年の香りが有り難い。




晴れての富士を楽しむ為、田子浦港に遊んだ。港公園として大規模の整備が進み、富士を楽しむ人も多くなった。五所亭、今村一夜の句碑も整備された。特筆は写真の如く富士山の俵石(富士山の熔岩―玄武岩が富士川まで流れて急冷され、六角の柱状に節理された物で、断面が俵の如く見える為名が付いている。)の大柱状に万葉の富士山の歌を刻んである。
よく知られている「天野原ふりさけ見れば真白にぞ富士の高嶺に雪は降りけり」であり、晴れての富士と共に素晴らしい景を為している。


富士市今泉の昔話(138)賀春

2015年01月01日 19時56分56秒 | 昔話
富士市今泉の昔話(138)  迎春

迎春奉賀
    卒寿てふ年をうつつに初景色      壷天
    
    くれなゐにくがねほのかに初御空    稜子

初日の出を恒例の広見の高台に拝した。時の流れの感激を景とした。







初日の出。富士の頂が赤らみ始めて早い。






今日よく晴れて日の出が素晴らしい。未年ながら雲の形は何かに挑む形が見られた。




記事のタイトルを入力してください(必須)

2014年12月29日 14時45分02秒 | 昔話
富士寺今泉の昔話(137)善徳寺に関する当地の年譜(15)

当地の年譜を記して15回、源平時代より現代までの歴史を尋ねて年末になった。まだまだ勉強したき事が多いが一つの区切りとして「昔話」を今回で休み、改めて善得寺・善得寺城につき纏める事を考えたい。

天保 4 1833  天保の大飢饉。4年~10年(1839)。
天保11 1840  祥座元禅師没。(過去帳)
           是より善徳寺無住。
嘉永 6 1853  末寺善徳寺無住。(清見寺資料)
安政 元 1854  11月4日、安政の大地震発生。
           デイアナ号遭難。
           富士川東岸に陥没、堤防決壊により五貫島付近大被害。
           清岩寺本堂倒壊。
安政 4 1457  古郡重年(3代代官)他へ転出の後、江川太郎左衛門が代官と
           なり、富士川の治水を進めた。
           大被害を受けた五貫島等を救うため、後にいふ「帰郷堤」を
           1457年に開始し1458年に完成させた。完成後住民が故郷
            に帰った思いが多く、堤を帰郷堤といい大事にされている。
安政 5 1458  帰郷堤完成。
明治 元 1868  末寺書き上げ、今泉村善徳寺。(清見寺資料)
明治 4 1872  善徳寺廃寺となり、法雲寺に合される。
           合するにあたり、善徳寺資料も引き継がれ、中には善徳寺の過去
           帳があり、善徳寺を知る貴重な物となっている。過去帳には延宝
           年間(1672)より明治までの約600柱の戒名が記されている。           興味ある諸事項は前記したが、200年間にの数は少ない気がする。
明治13 1880  今泉大火(鍛冶屋瀬古より清岩寺まで類焼260戸余)により
           清岩寺主要堂宇焼失。
昭和 2 1927  清岩寺本堂再建。
昭和49 1974  福応寺に茶荃塚建立。
昭和61 1986  善徳寺供養祭開始。
           以降現在まで地方の行事として定着、毎年大勢の人を集め法雲寺
           の御住職を導師として盛大に行われている。現在は今泉地区の
           例祭となっている。

   以上にて善徳寺に関する当地の年譜を終わる。

家業の林業の標として、林業地の中心の瀬古辻に明善碑・五千石の讃句の碑・武者小路
の愛山碑をたてた。讃句の碑に2碑を侍ししめ林業への我が家の丹精・努力の決意の碑と
した。
   わが生は檜苗植え継ぐことで足る     壷天
   木を測る声を復唱息白し         稜子
     木の径を測るとその声を復唱し記録する二人作業の姿である。








林業の施業法として試行を重ねているが、現在は80年を伐期とする長伐期施業を進めており、写真は60年の杉林である。








富士市今泉の昔話(136)善得寺に関する年譜(14)

2014年12月24日 08時54分13秒 | 昔話
富士市今泉の昔話(136)善徳寺に関する当地の年譜(14)
年次   西暦    事項
享保16 1731  今泉村一村一組を四組に分割。(邑宝鑑)
            東組1259石、西組703石、元組405石、
           月組314石。
延亨 2 1745  善徳寺火災。(今泉村誌)
宝暦 7 1757  末寺善徳寺在住。(清見寺資料)
宝暦12 1762  清岩寺寺域一反四畝永代供養料として拡大。
           水神堂の原田・今泉の分水整備。(原田村村誌)
宝暦13 1763  今泉代官金田伴右衛門を最後に旗本知行地(巨勢大和守)とな
           る。
明和 元 1764  古峰参公座元没。
           今泉村2950石、依田橋800石、伝法1025石、
           中里1300石、厚原1261石、その他何れも1000石
           以下
明和 5 1768  12月21日、白隠、原松蔭寺にて遷化。
明和 7 1770  頑極癡頑首座禅師没。
安永 3 1774  末寺善徳寺在住。(清見寺資料)
天明 1 1781  天明大飢饉。(天明2~8年)
天明 2 1782  清岩寺山門の扁額「冨永山」、芝増上寺の大僧正正誉上人筆が
           なる。
天明 3 1783  浅間山大噴火。
天明 5 1785  今泉村の領主巨勢より水野出羽守になる。(原田と共に)
天明 8 1788  清岩寺の沿革を記した名号塔建立。6地蔵と共に整備。
文化10 1813  拙翁到公座元没。(善徳寺過去帳)
文化14 1817  善徳寺に9カ村名主集合(吉村文書)
           本堂は集会を行へる広さがあった。
文政 7 1824  善徳寺出訴。(清見寺資料)
文政 9 1826  檀家に掛け合い。善徳寺祥道他6名。(清見寺資料)


祝日、晴れての雪富士の基、富士山全国女子大学駅伝が盛大に行われた。沿道の大声援
と女子選手の力走が目に残る。勢子辻の富士の一景。



勢子辻のの中に「林の讃句」林相をととのへ冬日深許す(上田五千石)を立てた。武
者小路碑と明善碑と共に林業地の標となる事を願っている。





















富士市今泉の昔話(135)善得寺に関する当地の年譜(13)

2014年12月20日 09時12分04秒 | 昔話
富士市富士市今泉の昔話(135)善得寺に関する当地の年譜(13)

年次   西暦    事項
寛文 元 1661  法雲寺、龍岳周信和尚の時清見寺大梁和尚との縁により妙心寺派
           として再興。
寛文 2 1662  古郡孫大夫重政、善得寺村を今泉村とす。
           保泉寺中吉原に移転す。
寛文 7 1667  古郡氏富士川雁堤着工。
寛文 9 1669  慈照寺開基、広大院医冨川慈照居士没。
寛文11 1671  古郡重年、2代目代官となる。
延宝 2 1674  富士川雁堤完成。備前堤(人柱が備前の人だった為の名)完成。
           富士川本流を岩淵の派川に流す。
{富士川の上流の釜無川がある。此処も支流の氾濫による水害が絶えなかったが、信玄
が今に名が残る信玄堤を築営、治水を完成させ多くの田畑を為し得た。築営は甲州流で
信玄堤の内に大きな遊水地を設け、楊柳などの木を植え堤防と共に水勢を弱め治水を
完成させた。雁堤は此の甲州流の治水を範としていると思はれる。}
           水神下の堤防を川成島まで延長。
           古郡3代(重高・重政・重年)の偉業なる。
延宝 3 1675  末寺善徳寺在住。(清見寺資料)
延宝 4 1676  10代、法岩寿公首座没。(善徳寺過去帳)
延宝 8 1680  8月6日、大津波中吉原へ。
天和 元 1681  2年にかけて中吉原宿は現在の吉原宿に移転。
天和 2 1682  高林西堂和尚没。(善徳寺過去帳)
           11月1日、5代将軍綱吉により孝子中村五郎衛門表彰、永代
           90石賦与。
元禄14 1701  (善徳寺の檀家だったと思はれる家祖宗弘大徳没。)
元禄16 1703  地震により小田原城天守破損。
宝永 2 1706  瀬古の忠長の御茶屋御殿命により取り壊し。(駿河資料)
   3 1707  小田原城天守復元。
   4 1707  田宿の住人が富士川(富士川は雁堤で閉め切られており、潤井川
           の堤防欠壊が続いたためかも知れない)の洪水により移住が必要と
           なり、代官能勢の指示により瀬古の地(御殿)に引き越しした。
           吹上の水の再配分が図られた。吹上・寺市場に2、御殿に1の割合
           で分水が整備された。分水に工夫(甲州の三分の一の地の如く
           溜め池を作り、出口に滝を作り落ち口の比で水を分割。現在は道路
           下となっているが石堰は残つており大事にしたい)がされている。            (今泉宝鑑)
           この折埋められていた忠長卿の什器と思はれる銀製品が出土し、
           領主に提出したがその後不明。
           富士山宝永の大噴火。
宝永 5 1708  本国寺新川改修。今泉郷地の灌漑完成、中村三郎衛門の功として今
           泉の堰部に顕彰の碑がある。
正徳 2 1712  福応寺開山。古岸和尚(清見寺芝岸和尚の法脈)。
正徳 3 1713  熊野別当より家祖に普賢院免許状、桃色袈裟免許状あり。
正徳 5 1715  湘南薫座元没。(過去帳)
           8月7日、瀬古の鈴木氏宅に弁財天祀らる。駿河大納言の屋敷跡
           に権現様が祀られているの伝承があったが、東照大権現で無く九
           頭流権現だったが関係が考えられる。
享保 3 1718  白隠、妙心寺の首座となり白隠と号す。
享保11 1726  善徳寺の本尊寄進の蓮池金左衛門死去。(善徳寺過去帳)
           永明寺の蓮池の墓地に墓が残る。過去帳の氏名で現在確認できて
           いるのは唯一の物である。
享保12 1727  慈照寺廃。法雲寺に合併。
寛保 3 1734  福応寺全焼。

冬本番。雪姿を池に映しての富士が美しい。



我が林業地の北端の「こどもの国」の前に金原明善翁の林業推奨の碑を立ててある。
明治の末に家祖が翁の指導を得て、林業に丹精・努力を重ねた折戴いた色紙の辞である。
此の頃の植林が100年の樹齢を越え、林道板小屋線に明治の林の看板を立てた。