富士市今泉の昔話(132) 善得寺に関する当地の年譜(10)
「 古文書等の記述」(補記){私見}
年次 西暦 事項
天正19 1591 秋山夫人(下山の局)卒。27歳。
文禄 元 1592 武田信吉 佐倉10万石に。
3月、名護屋にてお牟須 難産の為母子死去。
文禄 3 1593 1月15日、宗杲(東谷禅師)清見寺にて死す。
善得寺は無住となり、善得寺再興の動きは消え、仮堂は木像
と共に浮浪者の火で焼失。
鷹狩りの為の御殿家康整備。(山口氏文)吉原御殿整備と私見。
慶長 3 1598 秀吉死去。
慶長 4 1599 御朱印に勢子村の記あり。
慶長 5 1600 川成島に渡船場。東海道に吉原宿制定(元吉原の場所)。
関原の合戦、東軍勝利。
慶長 8 1603 家康征夷大将軍となる。江戸開府。
家康は穴山氏所縁の秋山夫人(下山局)との間の家康の5男を
武田信吉として水戸25万石に封じ、梅雪との約の武田の家名
を残したが、この年夭折。9月12日、21歳。
慶長 9 1604 御朱印に善得寺村あり。
慶長10 1605 10月4日、秀忠征夷大将軍に。
慶長10 1605 12月17日、清岩寺開基中村彦次郎吉久没。71歳。(墓)
慶長11 1606 3月18日、家康三島より清水へ。(善徳寺の記なし)
(徳川実記)
朝鮮通信使初めて来朝。文化8年(1811)まで12回。
一行400人。
慶長12 1607 7月、駿府城落成。家康大御所として移る。
12月、角倉了以により富士川通運。
12月12日、駿府より江戸へ。(善得寺の記なし)
(徳川実記)
興国寺城廃城。
慶長14 1609 家康この年以降善得寺御殿(瀬古御殿)にて鷹狩り約10回。
江戸・駿府の往復の途次宿泊所として使用。
{善得寺御殿は先に秀吉の接待に建てた吉原御殿を整備した御殿と考える。連泊の事もあ
り好かれた宿舎であり、あるいはお局に関係あったかもしれない。この建物は後に駿河大
納言の御茶屋御殿となり、大納言の失脚の後に廃却されている。遺物・遺跡は全て失はれ
ているが、吹上の天神社に桃の形の池を持つ蹲がある。此の石に記は無いが、長寿を表す
桃の形よりこの御殿に関係の物と私見する。}
「10月26日、大御所江府におはしまさんとて御発輿あり、
けふ善得寺に至らせたまひお鷹狩りあり。」(徳川実記)
(慶長政治録)
「11月5日、お鷹狩りを重ねて三島に着かせたまいしに俄に」
(徳川実記)
「11月26日、関東遊猟 に駿府出発 善得寺に至る。」
(武徳編年集成)
慶長15 1610 「10月15日、大御所清水より善得寺にならせたまふ」18日
まで滞在。「10月19日、大御所善得寺より三島に着かせら る。」
(徳川実記)(集成)
慶長16 1611 「10月7日、大御所勤めて今泉につきたまふ。善得寺にて狩。」
(実記)
「住職(東泉院)手製の酢を献じ善得寺酢と言ふ。」(実記)
「10月8日、三島に着かせたまふ。」(実記)
「11月22日、三島より今泉に至らせたまふ。」(実記)
慶長17 1612 「1月25日、家康富士野にて鷹を放つ。」(駿府政治録)
「2月15日~17日、吉原泊清水へ。」(岳南史)
「10月2日、駿城を御発輿江戸へ。道すがら狩。」
(善得寺の記なし。)
「11月2日、駿府へ帰らんとて江戸を御発輿。」
(善得寺の記なし。)
慶長18 1613 「9月18日、清水より善得寺に着かせたまふ。」(実記)
「9月19日、雨により善得寺に御滞留。」(実記)
山茶花が多くの花をつけている、オジギソウも可愛い花をつけている。


「 古文書等の記述」(補記){私見}
年次 西暦 事項
天正19 1591 秋山夫人(下山の局)卒。27歳。
文禄 元 1592 武田信吉 佐倉10万石に。
3月、名護屋にてお牟須 難産の為母子死去。
文禄 3 1593 1月15日、宗杲(東谷禅師)清見寺にて死す。
善得寺は無住となり、善得寺再興の動きは消え、仮堂は木像
と共に浮浪者の火で焼失。
鷹狩りの為の御殿家康整備。(山口氏文)吉原御殿整備と私見。
慶長 3 1598 秀吉死去。
慶長 4 1599 御朱印に勢子村の記あり。
慶長 5 1600 川成島に渡船場。東海道に吉原宿制定(元吉原の場所)。
関原の合戦、東軍勝利。
慶長 8 1603 家康征夷大将軍となる。江戸開府。
家康は穴山氏所縁の秋山夫人(下山局)との間の家康の5男を
武田信吉として水戸25万石に封じ、梅雪との約の武田の家名
を残したが、この年夭折。9月12日、21歳。
慶長 9 1604 御朱印に善得寺村あり。
慶長10 1605 10月4日、秀忠征夷大将軍に。
慶長10 1605 12月17日、清岩寺開基中村彦次郎吉久没。71歳。(墓)
慶長11 1606 3月18日、家康三島より清水へ。(善徳寺の記なし)
(徳川実記)
朝鮮通信使初めて来朝。文化8年(1811)まで12回。
一行400人。
慶長12 1607 7月、駿府城落成。家康大御所として移る。
12月、角倉了以により富士川通運。
12月12日、駿府より江戸へ。(善得寺の記なし)
(徳川実記)
興国寺城廃城。
慶長14 1609 家康この年以降善得寺御殿(瀬古御殿)にて鷹狩り約10回。
江戸・駿府の往復の途次宿泊所として使用。
{善得寺御殿は先に秀吉の接待に建てた吉原御殿を整備した御殿と考える。連泊の事もあ
り好かれた宿舎であり、あるいはお局に関係あったかもしれない。この建物は後に駿河大
納言の御茶屋御殿となり、大納言の失脚の後に廃却されている。遺物・遺跡は全て失はれ
ているが、吹上の天神社に桃の形の池を持つ蹲がある。此の石に記は無いが、長寿を表す
桃の形よりこの御殿に関係の物と私見する。}
「10月26日、大御所江府におはしまさんとて御発輿あり、
けふ善得寺に至らせたまひお鷹狩りあり。」(徳川実記)
(慶長政治録)
「11月5日、お鷹狩りを重ねて三島に着かせたまいしに俄に」
(徳川実記)
「11月26日、関東遊猟 に駿府出発 善得寺に至る。」
(武徳編年集成)
慶長15 1610 「10月15日、大御所清水より善得寺にならせたまふ」18日
まで滞在。「10月19日、大御所善得寺より三島に着かせら る。」
(徳川実記)(集成)
慶長16 1611 「10月7日、大御所勤めて今泉につきたまふ。善得寺にて狩。」
(実記)
「住職(東泉院)手製の酢を献じ善得寺酢と言ふ。」(実記)
「10月8日、三島に着かせたまふ。」(実記)
「11月22日、三島より今泉に至らせたまふ。」(実記)
慶長17 1612 「1月25日、家康富士野にて鷹を放つ。」(駿府政治録)
「2月15日~17日、吉原泊清水へ。」(岳南史)
「10月2日、駿城を御発輿江戸へ。道すがら狩。」
(善得寺の記なし。)
「11月2日、駿府へ帰らんとて江戸を御発輿。」
(善得寺の記なし。)
慶長18 1613 「9月18日、清水より善得寺に着かせたまふ。」(実記)
「9月19日、雨により善得寺に御滞留。」(実記)
山茶花が多くの花をつけている、オジギソウも可愛い花をつけている。


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