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富士市を中心の郷土史

昔話、城、寺、歴史。

富士市今泉の昔話(129)

2014年11月07日 16時07分28秒 | 昔話
富士寺今泉の昔話(129) 善得寺に関して当地の年譜(7)
年次   西暦    事項
永禄11 1568 2月16日、信玄家康と今川領の分割占領を約し、大井川を境と
          して西を徳川東を武田と約す。
          3月24日、寿桂尼死去。78歳。
          「12月13日、信玄入道本邦を競望し、故なく数万の甲兵を以て
          乱入す。」(太源雪斎の香語)
          12月6日、信玄駿河侵攻(第一次)。蒲原城を奪い、臨斉寺を焼き、
          駿府を占領、兵2万5千にて氏真を追う。
          氏真兵1万5千にて清見寺に入り、薩垂山八幡平に布陣したが
          瀬名・朝比奈・葛山等の武将の反乱により敗走。反乱21名に及ぶ。
          12月12日、安部金山攻撃。信玄内房着陣
          12月28日、北条兵船にて300氏真に援兵。
          12月12日、北条氏政は今川氏支援の為出陣、三島に布陣
          12月13日、氏真は駿府を攻略され懸河に退去。
          12月14日、北条は富士川を越え、蒲原城に入城
          12月中に北条河東一帯を制圧。北条薩垂峠以東を占拠、善得寺城
          に大藤左近衛門を置く。(武徳編年集成)
          家康は三カ日より侵攻、12月18日浜松城に入る。
          清見寺が焼かれた為、東谷禅師は難を逃れて建福寺に。
          信玄の依頼により建福寺の再建を図り二世として住持。中興。
          今川上杉の交渉使僧に東泉院活躍。(六所資料)

          信長の楽市・楽座、道・橋の整備、兵農分離等の効果大。
永禄12 1569 北条は泉頭城、三枚橋城、戸倉城を配し武田に対抗。
          北条氏康、蒲原城に善徳寺廓を作る(北条五代記)。
{何故善徳寺廓の名が付けられたか不思議である。此の頃は善得寺で在った筈であり、離
れた地の寺の名をつけるのも解らない。此処に在る善福寺の別名とも考えられるが善福寺
の資料が失われているため寺では聞き得なかった。善得寺という寺が在ったか、善福寺の
別名かのいずれかと思はれる。今泉の地が蒲原と呼ばれた事もあった事よりも混乱が考え
られる。}
          信玄再度駿河侵攻(二次)。2月、善得寺・実相寺等を焼く。実相寺
          の僧侶24人を斬首。善得寺城を焼く。
          信玄一万八千の兵にて久能山を本陣とす。この折夜陰に乗じて部下
          を四方に派遣して、善得寺等各所の仏閣を焼く。
{瀬古の地に義元の建てた大寺善得寺は30年を経て灰燼に帰した。寺市場の善得寺の1
50年と共に此の地には200年に近い大木が繁茂していたと思はれえる。清岩寺の栢の
大木もその一つである。御守殿神社に抱え余る「けんぽなし」が在り、子供の頃その実を
楽しんだ事があるが、名残だったかもしれない。10町歩に及ぶ寺域に豪壮な仏閣また大
木の火災は凄まじい物であったと思はれる。試掘の折石化した大きな灰溜まりがあり、灰
層も感じられたが確認できなかつた。}
           馬場江尻城を築城。
           3月7日、氏政武田の破約を上杉に通意。甲相対陣90日。          
          4月、食糧危機と農期の為興津川より甲府へ。
          江尻城に穴山(陣代に有泉大学)を残し、久能山城に板垣を残す。
          信玄は善得寺を焼き打ち後、寺域を没収し寺域を含む横尾郷を穴山
          梅雪に夫人(信玄の第二女)の化粧料として与える。横尾郷は今泉村
          に当たる地域と考えられる。
{横尾郷の調査は鈴木氏、杉沢氏により行われ「駿河誌」に発表されているが、横尾郷の名を
刻む二本の石碑が発見されている。一本は十王子神社の前に在り当地では一番古いと言わ
れる庚申塔(仁藤家の伝承では仁藤が関係した此の地の給水の完成の記念塔と言われてい
る)、もう一本は戸泉(樋詰?)より運び現在上柳氏宅に祀られて居る供養塔である。不思
議の事にこれ等の碑には20名以上の氏名が刻まれている。この時代に氏名で名を残す多
数の武士が此の地に居住していたとは考えられず、兵農分離の前に甲州より移住した郷士
が平時は農を営み住していたのではないだろうか?}
           4月、氏康善得寺城などに兵一万六千を配し小田原へ帰る。善得
           寺に大藤左衛門を置く。
           5月、氏真家康に掛川城開城(駿府返還を条件に)。氏真は追わ
           れる如く蒲原城から戸倉城へ、更には小田原へ。
           氏政の夫人(信玄の長女)を甲府に追い、甲相不和。
           6月10日、信玄駿河に発向(第三次)。篠坂峠より駿東に。
           6月17日、三島攻撃。韮山状攻撃。
           6月17日、香姫(氏政夫人)死去。
           6月19日、田子浦着陣の信玄大水害にて退去。(武徳編年集成)
           6月、津浪、富士川大洪水。
           信玄転進して6月23日大宮城攻撃。7月2日落城。
           7月信玄甲府に帰陣。
           8月25日、信玄碓井峠より上野に更に武蔵に進軍。
           10月、信玄小田原城を包囲。道志川より甲州に撤退。
           11月13日、北条氏政東泉院の寺領を安堵。(六所資料)
           12月4日、蒲原城合戦。(善得寺廓攻防)12月6日落城。

永禄13 1570  1月、氏康三枚橋城・興国寺城・蒲原城を占領、武田と合戦。
     ~4,22  4月信玄駿河侵攻。

「西王母」美しい桃色の花を開き始めた。「ほうきくさ」も急に紅葉始めた。

































富士市今泉の昔話(128)

2014年11月01日 13時21分45秒 | 昔話
富士市今泉の昔話(128) 善得寺に関し当地の年譜(6)

年次   西暦    事項
弘治元年 1555  七世雪斎没(妙心寺35世)。10月10日、60歳。長慶寺
           墓所。
           以降宗杲と玄洪が善得寺と臨斉寺を輪番住持する事が遺言さ
           れた。
           宗(東谷禅師)と玄(景筑禅師)の輪番。籤引きの結果、宗―臨
           斉寺、玄―善得寺と決まる。
           勢子村を善得寺村となる。
           4月、第2回川中島合戦(200日余)。今川援軍。
           11月由布姫死去(信玄側室)。
弘治 2 1556  景虎出家。
           山科言継(前橋中納言)3月2日まで駿府に遊ぶ。善得寺参詣。
弘治 3 1557  太源禅師に対し、3月22日宝珠護国禅師の勅諱。
           諏訪継嗣虎王丸善得寺にて修業。
           勝頼弟信景得度。
           8月、第3回川中島合戦。
弘治 4 1558  5月、信玄信濃守護となる。甲斐と共に。
永禄 元 1558 大中寺は善得寺の末寺のため保護(今川判物 大中寺)
          清源庵(阿野庄)は善得寺の末寺たり。(今川判物 祥雲寺文書)
          2月、信玄出家。家臣も同時に。小幡日意、山本道鬼斉、真田
          一徳斉、長坂釣閑斉。
永禄 2 1559 12月13日、氏政相続。19歳。
          4月、景虎5000の兵と共に上洛。
永禄 3 1560 4月、景虎関東管領に。
          5月8日、義元三河守に。
          5月10日、義元軍上京出発、兵二万五千(或いは四万)。
           
          5月19日、義元戦死42歳。

          東谷禅師臨斉寺に住持。輪番制を籤引きに改めた直後に義元
          戦死。
          上伊那仏教会資料に東谷禅師は建福寺に住持とあるが疑問。
          6月5日、義元葬。掛真-景筑。下火―東谷。
          12月、景虎相模に。信玄小田原に援軍。
          山本勘助海津城築城。
永禄 4 1561 今井と見附けが一体となり吉原宿となった。
          3月13日、上杉軍小田原攻撃9万6千人。(北条記)
          3月、景虎鶴岡八幡宮にて関東管領を披露。
          8月14日、第4次川中島合戦。山本勘助戦死。上杉1万6千、
          武田1万6千。
          9月9日、氏康、川中島に合力。
          妙法寺記終わる。
永禄 5 1562 信長、家康の清洲同盟。
          信長長女督姫と家康長男信康と婚約。
永禄 6 1563 武田、川越の北条支援。
永禄 7 1564 東谷禅師清見寺に住持。清見寺の月航禅師が妙心寺に再住
          の為。
          快川禅師 恵林寺入山。
          第2次国府台合戦。北条里見を破る。
永禄 8 1565 1月、義信幽閉され、飯富兵部殺害。
          8月、第5次川中島合戦。
          9月、信長の養女 龍勝寺殿と信玄4男勝頼と婚約。甲尾
          同盟。
          9月、信長 義昭を擁して上洛。
永禄 9 1566 富士川大洪水。
          義信自滅、妻を今川に返す。甲駿不和。
          4月25日、穴山信友室(信虎次女)没。梅雪の母南松院澱葵庵
          理性大姉。
永禄10 1567  八世景筑 善得寺にて雪斎13回忌法要(最後の法要)。
           九世東谷(宗杲)紹巴と食事。
           5月18日、富士見に来場。吉原城を遠望す。(善得寺城?)
           東谷禅師 大中寺に寄進中興開山となる。(清見寺文書)
           6月、今川 武田に塩止め。
           11月、勝頼の正室に信長の養女婚す。甲尾同盟なり、三国会
           盟破棄と為る。
           11月、信玄6女松姫と信長の嫡男奇妙丸と婚為る。
{今川、武田、北条の力のバランスで成って居た三国会盟が、義元の戦死により崩れ、
氏実の弱体が攻撃の的になり始めた。今川の塩止め、今川と上杉の交渉の何れも武田の
破約の口実となり駿河侵攻が始まった。徳川と武田の間で今川領の駿河・遠州の分割の
約もなっていた。}

茸の珍客「おにふくべ」が現れた。奇妙の形であり、「ほこりたけ」の仲間である。




石蕗の花が各所に咲いてきた。













富士市今泉の昔話(127)

2014年10月25日 08時34分03秒 | 昔話
富士市今泉の昔話(127)善得寺に関し当地の年譜(5)

年次    西暦    事項
天文22 1553 駒井高白斉死す。立春の12月25日。信玄の身代わりとして?
          8月川中島合戦始まる。今川の応援あり。
          秋 謙信上洛、越後守護に。
          駿遠守護の今川兵四万を以て参河に入り織田に当たる。(今川記)
          12月、信玄娘黄梅院北条氏政に嫁す。
天文23 1554 2~3月、氏康富士川河口の加島まで出陣。信長応援のため今川を
          挟撃。吉原城に本陣を置き義元の留守を窺う。兵三万余。
          義元義弟信玄に応援依頼。信玄富士川沿いに南下、加島苅谷川に
          布陣、柳島に本陣を置き対峙。兵一万五千余騎。(北条五代記)
          義元は家康応援のため、織田の鳴海城を攻撃していたが、河東の
          状況により帰して善得寺城に入る。

           2月26日、苅谷川合戦。(潤井川)(武田・北條 駿国雑誌)
          加島合戦。天香久山の対陣。

          河東一帯に今川・武田・北條の三軍の合計7~8万の軍兵が集結し
          小競り合いを重ね、古書の示す状況だった。
          「16日間駿・甲・相の3州の兵、挑戦止むことなく、三家の士各
          軍慮を労し、秘術を尽くしてその技を競う」(鎌倉9代後記、
          甲陽軍監、相州兵乱記)
          「合戦相続きて雌雄決せざりしに、臨斉寺の長老雪斎と善得寺の
           長老建乗和尚の仲介にて和睦」
          「3月3日、善得寺にて三国会盟」(駿河国志、関八州古戦録、
           鎌倉9代記、相州兵乱記 北条の資料が多い)
          「善得寺の住僧、府中臨斉寺の住持等雙方和睦を調え、互いに縁
          を約し」(鎌倉9代後記)
          「雪斎等頻りに扱いに入る。両大将これに同意、即善得寺に会し
           和睦の酬盃あり」(駿国雑志)
          「三大将善得寺にて会盟あり、氏実は氏康の婿、義信は義元の婿
          たるべしと」(関東古戦録)
          「雪斎の斡旋にて和」(豆相記)
          「23年2~3月の戦いのあと雪斎の扱いにて三家の和」
          (甲陽軍監)
          「弘治2年丙辰に三方に御輿入、今川・北條・武田無事也。」
          (甲陽軍監)
          弘治年中まで武田信玄今川義元は北条氏康とたたかひしが同2年
          扱い在りて三家一度に縁者を組み和平の事」(北条5代記)
          「7月駿河の屋形様へ相州屋形様の御息女をむかひ申候」
          (妙法寺記)
          「極月武田晴信様の御息女を相州氏康の御息新九郎殿の御前に
          被成候」(妙法寺記)
         「三大将共に善得寺に出会給ひ和談のお祝ひ御盃取りかわしあり」、
          (関東兵乱記)


{所謂「三国会盟」の有無に関しては諸説がある。無しとの説は甲州に記録が無いから
としている事が多い。しかしながら拠り所としている高白斉記は会盟の前年で終わって
おり、是が高白斉の没であれば記にないのは自然である。高野山で1563年に年忌が
行はれており、是が13回忌であれば会盟の前の没が確認される。会盟後約15年は
此処河東の地に争いは無く、3家共に背後の憂いなく前進できた実体が在る。会盟後
15年で武田の一方的の破約による駿河侵攻は、会盟を記し得ない状況を武田に残した
のではないだろうか?}
{3家の軍師が善得寺の法塔(?)に小具足姿で会し、相互の婚を確認し又婚を推進して
3家の不可侵の誓句を交わしたと考える。雪斎・北條幻庵・山本勘助の3軍師と私見
する。壮大な善得寺の伽藍にての会盟が目に見えるような気がする。}

          聚分韻略発行。善得寺楽全軒主著。(楽全軒は雪斎の弟の建乗で
          あり、楽全軒は又塔頭の一つ)
          7月、氏康の娘氏真に嫁す。早川殿。駿相同盟なる。
          12月、信玄の娘氏政に嫁す。長女黄梅院。甲相同盟なる。
          (天文21年11月、義元の娘信玄の子義信に嫁す。)

信玄は和議により駿河を諦めた訳でなく、各所に新田開発を兼ねた屯田兵的の武士を密
かに定着させた。
  大淵 秋山 甲州増穂町上野より移住。
     小山 八小山城より移住。(小山田一党の説もある)
  桑崎 佐藤 甲州より移住。
  伝法 加藤 甲州より移住。

          見附宿、大暴風雨高波のため大被害にて東に移転、元吉原宿に。
          富士川の洪水により専修寺流出。(清岩寺の前身)

          天文の頃の善得寺の塔頭
          10。(臨斉寺文書)
           天寧庵、自牧庵、福王院、約芳院、宗鏡院、徳有院、
           法雲院、楽全軒、仙友軒、懐珠軒、
          続宗院(香語)
          天文の頃の善得寺の末寺18。
           須津天寧寺、沢田大中寺、富士円通寺、阿野真如寺、
           阿野青龍庵、阿野大川寺、原徳源寺、原瑞松庵、
           原松蔭庵、戸田方善寺、深良興禅寺、
           大平郷6寺
             幽洞庵、臥龍庵、得楽寺、鷲桂庵、光厳寺、向岳寺

「せきやのあきちょうじ」が咲き始め「あわだちそう」がはびこり始めた。






































富士市今泉の昔話(126)

2014年10月17日 20時24分36秒 | 昔話
富士市今泉の昔話(126)善得寺に関する当地の年譜(5)

年次   西暦   事項
天文10 1541 5月20日、義元の命により臨斉寺にて6世舜琴渓の13回忌
         法要。
         6月4日、信虎駿河に追放さる。
         6月28日、信玄家督相続。
         7月17日、氏綱没。氏康家督相続。27歳。
         10月、上杉 北条激突。
天文11 1542 家康出生。
         6月、信玄諏訪侵攻。
         7月21日、諏訪 頼重 東光寺にて自滅。
天文12 1243 3月、勘助、武田に仕官。
         諏訪氏滅亡。高遠城攻略。
         諏訪御寮人(由布姫)信玄の側室になる。
天文13 1544 武田 北条和睦。
天文14 1545 義元・信玄連合軍吉原へ。7月~11月2次大乱。
         義元 上杉憲政と共に氏康を挟撃。吉原城攻略9月。北条三
         島まで退却。

         8月、今川・北條戦。同盟により信玄駿河出兵。
         義元 善得寺着陣8月。狐橋の戦い、今川勝利。
         信玄善得寺泊、9月。
         月12日、信玄本須御陣所、板垣・栗原は大石寺に。
           (以下各項は高白斉記による)
         9月15日、信玄大石寺に着陣。
         9月16日、信玄馬見塚御陣所、義元対面。
         9月17日、義元御陣所に御留め。
         9月18日、今井見付御陣所。
         9月19日、千本松原御陣所。義元と共に。
         9月20日、岡宮御陣所。義元は長窪。
         10月24日、三方輪の誓句。
         
         北条撤兵。10月、吉原城自落。11つき、長窪城より退去。
         10月24日、上杉憲政・今川義元・北条氏康の三方輪の誓句。
           (高白斉三度も今川へ、信玄の扱いにて和談なる。)
         (高白斉記、妙法寺記)
         駿河再び今川領となる。
         河東一乱終わる。8年間。
{御殿場市深沢城を中心に行われた三方輪の誓句は後日の善得寺の三国会盟とよく
似ており、混同される時もある。「三方輪」の場合は高白斉が良く働き、和の成立
は信玄の功として武田の古書にも記されている。然し「善得寺の会盟」は会盟後約
15年で武田の一方的の破約で終っている為、また高白斉の死後の為武田の古書に
書かれて居ないのではなうだろうか?逆説的に「善徳寺の会盟」は在ったと考える。}
天文15 1546 北条氏は河越野戦の勝利により関東の支配権を広げた。
          4月20日、北条8000の兵にて上杉連合軍18,000を撃
          破。
          上杉朝定戦扇谷上杉滅亡。山内上杉憲政は上野に撤去、謙信に。
天文16 1547 6月1日、信玄甲州法度制定。
          8月、五社別当大納言(東泉院)に対し河東一乱の功を賞す。
          (六所資料)
天文17 1548 信玄、村上氏との戦い(上田原の合戦)。
          今川・織田の合戦(小豆坂の戦い)。
          景虎 家督を相続して春日山城に。
天文18 1549 2月28日、興国寺(真如寺)を善得寺の末寺とす。(義元判物)
          11月、家康人質として駿府へ。8歳~19歳の今川での生活。

          義元 興国寺城を大改修強化。興国寺を蓮光寺道場跡に移転。
天文19 1550 太源禅師妙心寺の35世に3日入山。山門寄進。
          御奈良天皇の召しにより、紫衣賜り入山。
          今川義元夫人(信玄の姉)6月2日没。
          甲駿の断絶を恐れ、信玄更なる婚姻を画策。高白斉駿河と往復。
天文20 1551 下方横尾郷 善得寺領。(義元判物 臨斉寺文書)
          景虎 上杉政景を退け越後統一。
天文21 1552 11月、義元の娘信玄の子義信に嫁す。(高白斉記、妙法寺記)
          9月、信玄の大井夫人死去。

育つた「たら」の木に花が咲いた。クジャクが羽を広げたようである。
木犀の花が溢れるように咲き始めた。庭に香が満ちる様である。
           


























富士市今泉の昔話(125)

2014年10月11日 08時14分38秒 | 昔話
富士市今泉の昔話(125)善得寺に関する当地の年譜(4)

年次   西暦     事項
永世16 1519  早雲没。
          義元誕生。
          信玄躑躅崎に築営。
大永 元 1521 今川甲斐侵攻。
大永 2 1522 雪斎27歳、方菊丸9歳共に善得寺に入る。
大永 3 1523 五世黙堂禅師は40年住寺後示寂。
          氏親は吉良氏出身の舜琴渓禅師(天龍寺より)を6世とした。
          岐阜定林寺(現在廃寺)より。
大永 5 1525 本国寺開基。(日国上人 北山本門寺7世)
          氏輝元服従5位上総介に。
大永 6 1526 9代氏親56歳で没。没後寿桂尼(菩提寺得願寺―徳願寺)活躍。
          10代氏輝相続。
          承芳善得寺御曹司と呼ばる。
          今川仮名目録(33条)制定。
大永 7 1527 甲駿同盟。
亨禄 2 1529 六世舜琴渓禅師は住持6年にして示寂。六世に二人の愛弟子が
          在った。梅岳承芳(後の義元)・九英承菊(後の雪斎)である。
亨禄 3 1530 方菊丸得度(12歳)梅岳承芳となる。建仁寺にて修業。
天文 2 1533 扇谷上杉と武田和睦。
天文 4 1535 6月5日、信虎駿河侵攻(今川為和集)。下方等領す。
          武田・上杉小田原攻撃。
          氏親の娘(端渓院)氏康の妻に。駿相同盟。
          8月、氏輝北条と伴に駿東より吉田を攻撃。武田を破る。
          氏輝は武田に焼かれた鳥並(芝川)の東泉院を現在の今泉に。
          (六所資料)
          8月19日、氏輝・信虎の万沢口の激戦。氏輝敗戦。
          氏輝承芳を呼び善得寺に置く。
          善得寺拾刹に列す。
天文 5 1536 3月17日、氏輝没。24歳。彦五郎没
          6月10日、花倉(華蔵)の乱。
          氏綱今川に援軍。

          承芳は争い後還俗し、今川氏11代の領主となった。義元19歳。
          承菊は建仁寺にて修業し太源雪斎となり善得寺に住した(七世)。
天文 6 1537 2月10日、信虎の長女(於豐)今川義元に嫁す。氏実の母 定恵
          院殿南室妙康大禅尼なり。甲駿同盟なる。
          信虎は娘の化粧料として、義元に興国寺城と下方12郷を贈る。
{先に早雲の褒章にこの組み合わせがあり、後の信玄の梅雪への褒章にもこの組み
合わせが在る。組み合わせに何か理由があるかもしれない。12郷は他の各地にもある
為一つの単位かもしれない。}
          甲相同盟に反する甲駿同盟に北条反発。
          駿河屋形と氏綱取合不止(妙法寺記)。
          北条破約に反発し駿河侵攻。2~3月の間に河東を制圧、吉原   
          城に拠る。
          2月26日、北条氏綱駿河侵攻、善得寺(寺市場在)を焼く。寺
          市場の善得寺は約150年にて廃墟に。
          下方五社の別当大納言(東泉院雪山)が北条の人質になる。
          河東一乱(一次)始まる。天文6年2月~8年7月。
天文 8 1539 今川氏北条より河東を回復(8月)。
天文 9 1540 善得寺再建。大冨山を改め富士山善得寺とす。
          場所・姿を明示の資料は少なく、僅かに香語のみであり、その
          部分を抽記する。
          「吹上の南丘を撰びて凹凸の地を引き平らげ累石を積んで正覚
          園を構え、活伽藍を建て、大冨山を改め、富士山に作る。」
          「諸堂の とう牙、高く啄み、廊腰緩やかに諸塔を廻り、」
          「東廊西序に動揺す」
{駿河1号に山口氏は現在の御守殿社の東の地域と推定。私見としては香語の如く
吹上の南の地で、別文の如く2条の南北の道を軸とする吹上・瀬古・坂本の地の約
1町歩が7堂伽藍の地であり、古書に在る御殿地の東西120~130K南北
200Kが寺域と考える。
此処を推定した理由は別文に詳記しているが、いまに残る幾つかの累石 栢の老木 
仁藤邸の何本かの柱基礎等は大事にしたい。}
{大寺を創建するには大量の欅・檜が必要の筈であるが、愛鷹山の材木が応じ得た
と考える。葛山氏が大量の槻の木を下和田より出材の記が結び付くと思はれる。
普通伐採より1年は乾燥させねば使えないため、今川の資金をしても何年もかかる
と考え、7堂伽藍も1年に一度にとは考えられない。揚げ水の土木工事、整地も大変
の工事だった筈である。}
           葛山氏が大量の槻の木を出材。(裾野市史)
           7堂伽藍を備えた禅修業専門道場で、10の塔頭 18の末寺を
           含む河東第一の大寺院が創建された。
           此の寺の水利が後の今泉宝鑑に在る今川時代の水利であり、
           この地域の上水道の出来るまでの大事の水源であった。
           大中寺の中興に雪斎は此処と同様の揚げ水の設備を作って
           いる。

「きせわた」「ほととぎす」が珍しい花を咲かせている。