富士寺今泉の昔話(129) 善得寺に関して当地の年譜(7)
年次 西暦 事項
永禄11 1568 2月16日、信玄家康と今川領の分割占領を約し、大井川を境と
して西を徳川東を武田と約す。
3月24日、寿桂尼死去。78歳。
「12月13日、信玄入道本邦を競望し、故なく数万の甲兵を以て
乱入す。」(太源雪斎の香語)
12月6日、信玄駿河侵攻(第一次)。蒲原城を奪い、臨斉寺を焼き、
駿府を占領、兵2万5千にて氏真を追う。
氏真兵1万5千にて清見寺に入り、薩垂山八幡平に布陣したが
瀬名・朝比奈・葛山等の武将の反乱により敗走。反乱21名に及ぶ。
12月12日、安部金山攻撃。信玄内房着陣
12月28日、北条兵船にて300氏真に援兵。
12月12日、北条氏政は今川氏支援の為出陣、三島に布陣
12月13日、氏真は駿府を攻略され懸河に退去。
12月14日、北条は富士川を越え、蒲原城に入城
12月中に北条河東一帯を制圧。北条薩垂峠以東を占拠、善得寺城
に大藤左近衛門を置く。(武徳編年集成)
家康は三カ日より侵攻、12月18日浜松城に入る。
清見寺が焼かれた為、東谷禅師は難を逃れて建福寺に。
信玄の依頼により建福寺の再建を図り二世として住持。中興。
今川上杉の交渉使僧に東泉院活躍。(六所資料)
信長の楽市・楽座、道・橋の整備、兵農分離等の効果大。
永禄12 1569 北条は泉頭城、三枚橋城、戸倉城を配し武田に対抗。
北条氏康、蒲原城に善徳寺廓を作る(北条五代記)。
{何故善徳寺廓の名が付けられたか不思議である。此の頃は善得寺で在った筈であり、離
れた地の寺の名をつけるのも解らない。此処に在る善福寺の別名とも考えられるが善福寺
の資料が失われているため寺では聞き得なかった。善得寺という寺が在ったか、善福寺の
別名かのいずれかと思はれる。今泉の地が蒲原と呼ばれた事もあった事よりも混乱が考え
られる。}
信玄再度駿河侵攻(二次)。2月、善得寺・実相寺等を焼く。実相寺
の僧侶24人を斬首。善得寺城を焼く。
信玄一万八千の兵にて久能山を本陣とす。この折夜陰に乗じて部下
を四方に派遣して、善得寺等各所の仏閣を焼く。
{瀬古の地に義元の建てた大寺善得寺は30年を経て灰燼に帰した。寺市場の善得寺の1
50年と共に此の地には200年に近い大木が繁茂していたと思はれえる。清岩寺の栢の
大木もその一つである。御守殿神社に抱え余る「けんぽなし」が在り、子供の頃その実を
楽しんだ事があるが、名残だったかもしれない。10町歩に及ぶ寺域に豪壮な仏閣また大
木の火災は凄まじい物であったと思はれる。試掘の折石化した大きな灰溜まりがあり、灰
層も感じられたが確認できなかつた。}
馬場江尻城を築城。
3月7日、氏政武田の破約を上杉に通意。甲相対陣90日。
4月、食糧危機と農期の為興津川より甲府へ。
江尻城に穴山(陣代に有泉大学)を残し、久能山城に板垣を残す。
信玄は善得寺を焼き打ち後、寺域を没収し寺域を含む横尾郷を穴山
梅雪に夫人(信玄の第二女)の化粧料として与える。横尾郷は今泉村
に当たる地域と考えられる。
{横尾郷の調査は鈴木氏、杉沢氏により行われ「駿河誌」に発表されているが、横尾郷の名を
刻む二本の石碑が発見されている。一本は十王子神社の前に在り当地では一番古いと言わ
れる庚申塔(仁藤家の伝承では仁藤が関係した此の地の給水の完成の記念塔と言われてい
る)、もう一本は戸泉(樋詰?)より運び現在上柳氏宅に祀られて居る供養塔である。不思
議の事にこれ等の碑には20名以上の氏名が刻まれている。この時代に氏名で名を残す多
数の武士が此の地に居住していたとは考えられず、兵農分離の前に甲州より移住した郷士
が平時は農を営み住していたのではないだろうか?}
4月、氏康善得寺城などに兵一万六千を配し小田原へ帰る。善得
寺に大藤左衛門を置く。
5月、氏真家康に掛川城開城(駿府返還を条件に)。氏真は追わ
れる如く蒲原城から戸倉城へ、更には小田原へ。
氏政の夫人(信玄の長女)を甲府に追い、甲相不和。
6月10日、信玄駿河に発向(第三次)。篠坂峠より駿東に。
6月17日、三島攻撃。韮山状攻撃。
6月17日、香姫(氏政夫人)死去。
6月19日、田子浦着陣の信玄大水害にて退去。(武徳編年集成)
6月、津浪、富士川大洪水。
信玄転進して6月23日大宮城攻撃。7月2日落城。
7月信玄甲府に帰陣。
8月25日、信玄碓井峠より上野に更に武蔵に進軍。
10月、信玄小田原城を包囲。道志川より甲州に撤退。
11月13日、北条氏政東泉院の寺領を安堵。(六所資料)
12月4日、蒲原城合戦。(善得寺廓攻防)12月6日落城。
永禄13 1570 1月、氏康三枚橋城・興国寺城・蒲原城を占領、武田と合戦。
~4,22 4月信玄駿河侵攻。
「西王母」美しい桃色の花を開き始めた。「ほうきくさ」も急に紅葉始めた。


年次 西暦 事項
永禄11 1568 2月16日、信玄家康と今川領の分割占領を約し、大井川を境と
して西を徳川東を武田と約す。
3月24日、寿桂尼死去。78歳。
「12月13日、信玄入道本邦を競望し、故なく数万の甲兵を以て
乱入す。」(太源雪斎の香語)
12月6日、信玄駿河侵攻(第一次)。蒲原城を奪い、臨斉寺を焼き、
駿府を占領、兵2万5千にて氏真を追う。
氏真兵1万5千にて清見寺に入り、薩垂山八幡平に布陣したが
瀬名・朝比奈・葛山等の武将の反乱により敗走。反乱21名に及ぶ。
12月12日、安部金山攻撃。信玄内房着陣
12月28日、北条兵船にて300氏真に援兵。
12月12日、北条氏政は今川氏支援の為出陣、三島に布陣
12月13日、氏真は駿府を攻略され懸河に退去。
12月14日、北条は富士川を越え、蒲原城に入城
12月中に北条河東一帯を制圧。北条薩垂峠以東を占拠、善得寺城
に大藤左近衛門を置く。(武徳編年集成)
家康は三カ日より侵攻、12月18日浜松城に入る。
清見寺が焼かれた為、東谷禅師は難を逃れて建福寺に。
信玄の依頼により建福寺の再建を図り二世として住持。中興。
今川上杉の交渉使僧に東泉院活躍。(六所資料)
信長の楽市・楽座、道・橋の整備、兵農分離等の効果大。
永禄12 1569 北条は泉頭城、三枚橋城、戸倉城を配し武田に対抗。
北条氏康、蒲原城に善徳寺廓を作る(北条五代記)。
{何故善徳寺廓の名が付けられたか不思議である。此の頃は善得寺で在った筈であり、離
れた地の寺の名をつけるのも解らない。此処に在る善福寺の別名とも考えられるが善福寺
の資料が失われているため寺では聞き得なかった。善得寺という寺が在ったか、善福寺の
別名かのいずれかと思はれる。今泉の地が蒲原と呼ばれた事もあった事よりも混乱が考え
られる。}
信玄再度駿河侵攻(二次)。2月、善得寺・実相寺等を焼く。実相寺
の僧侶24人を斬首。善得寺城を焼く。
信玄一万八千の兵にて久能山を本陣とす。この折夜陰に乗じて部下
を四方に派遣して、善得寺等各所の仏閣を焼く。
{瀬古の地に義元の建てた大寺善得寺は30年を経て灰燼に帰した。寺市場の善得寺の1
50年と共に此の地には200年に近い大木が繁茂していたと思はれえる。清岩寺の栢の
大木もその一つである。御守殿神社に抱え余る「けんぽなし」が在り、子供の頃その実を
楽しんだ事があるが、名残だったかもしれない。10町歩に及ぶ寺域に豪壮な仏閣また大
木の火災は凄まじい物であったと思はれる。試掘の折石化した大きな灰溜まりがあり、灰
層も感じられたが確認できなかつた。}
馬場江尻城を築城。
3月7日、氏政武田の破約を上杉に通意。甲相対陣90日。
4月、食糧危機と農期の為興津川より甲府へ。
江尻城に穴山(陣代に有泉大学)を残し、久能山城に板垣を残す。
信玄は善得寺を焼き打ち後、寺域を没収し寺域を含む横尾郷を穴山
梅雪に夫人(信玄の第二女)の化粧料として与える。横尾郷は今泉村
に当たる地域と考えられる。
{横尾郷の調査は鈴木氏、杉沢氏により行われ「駿河誌」に発表されているが、横尾郷の名を
刻む二本の石碑が発見されている。一本は十王子神社の前に在り当地では一番古いと言わ
れる庚申塔(仁藤家の伝承では仁藤が関係した此の地の給水の完成の記念塔と言われてい
る)、もう一本は戸泉(樋詰?)より運び現在上柳氏宅に祀られて居る供養塔である。不思
議の事にこれ等の碑には20名以上の氏名が刻まれている。この時代に氏名で名を残す多
数の武士が此の地に居住していたとは考えられず、兵農分離の前に甲州より移住した郷士
が平時は農を営み住していたのではないだろうか?}
4月、氏康善得寺城などに兵一万六千を配し小田原へ帰る。善得
寺に大藤左衛門を置く。
5月、氏真家康に掛川城開城(駿府返還を条件に)。氏真は追わ
れる如く蒲原城から戸倉城へ、更には小田原へ。
氏政の夫人(信玄の長女)を甲府に追い、甲相不和。
6月10日、信玄駿河に発向(第三次)。篠坂峠より駿東に。
6月17日、三島攻撃。韮山状攻撃。
6月17日、香姫(氏政夫人)死去。
6月19日、田子浦着陣の信玄大水害にて退去。(武徳編年集成)
6月、津浪、富士川大洪水。
信玄転進して6月23日大宮城攻撃。7月2日落城。
7月信玄甲府に帰陣。
8月25日、信玄碓井峠より上野に更に武蔵に進軍。
10月、信玄小田原城を包囲。道志川より甲州に撤退。
11月13日、北条氏政東泉院の寺領を安堵。(六所資料)
12月4日、蒲原城合戦。(善得寺廓攻防)12月6日落城。
永禄13 1570 1月、氏康三枚橋城・興国寺城・蒲原城を占領、武田と合戦。
~4,22 4月信玄駿河侵攻。
「西王母」美しい桃色の花を開き始めた。「ほうきくさ」も急に紅葉始めた。

