ダライラマが最近台湾を訪問した。これは八八水害の被災地の被災者への慰問が目的だ。
台湾では仏教が主流だが、最近はチベット仏教が勢力を拡大している。さらにダライラマは宗教指導者としては世界的にも認められている。台湾の被災地において大いに歓迎され、心のケアに大きな効果を発揮した。
ところが、毎日新聞に、はっきりいって罰あたりというか、まったく宗教の本質というものをわかっていない唯物論者の言いがかり記事があった。
ダライ・ラマ:台風被災地で犠牲者を供養 台湾
ダライ・ラマ14世:台湾訪問 台風被災地へ 「純粋な宗教の旅」強調
この中で
>被災者の大半は台湾の先住民族で、8~9割はキリスト教徒。このため、訪台の意義を疑問視する声もあるが、小林村で親族を亡くした道教徒の女性は供養の様子を見て「宗派は異なっても、心の安らぎを得られた」と涙ながらに語った。
などと「キリスト教徒だったら、ダライラマのような仏教指導者は排撃するはずだ」という、マトモなキリスト教徒が目にしたら到底信じられないとんでも論がかかれているのだ。また「宗派は異なっても」という談話も挿入している。宗派の違いが大きな違いだという先入見があるからこんな記事になる。
「疑問視」しているのは、おそらく何の信仰も持たない唯物論者の妄想だ。
キリスト教徒だから、ダライラマを歓迎しないと思っているバカは、ダライラマがこれまで欧米キリスト教徒にいかに歓迎されたかをもう一度反芻してみることだ。
しかもチベット仏教が仏教、哲学史の中で、どれほど深い意味を持っているかも、おそらく毎日新聞は不勉強で知らないのではないか?
信仰を持つということは、他宗教や他宗派の排斥を意味するものではない。
唯物論者は、異なる変種をお互いに排斥しあったから、他人もそうするものだと思い込んでいるのだろうが、信仰を持っている人間は、お互いに異なる宗派や宗教を尊重しこそすれ、排斥などしない。儀式が異なっていても信仰や宗教が目指す宗教的真理は同じだからだ。
レバノンあたりに行けば明らかだが、イスラーム教徒が最も排斥するのは「信仰というものを持たない唯物論者」であって、キリスト教や仏教ではない。私自身キリスト教徒で、レバノンでそのために排撃されたことはない。レバノンのキリスト教徒はクルアーンを好んで読むし、イスラーム教徒は新約聖書も好む。
ヨハネ・パウロ2世は生前中東のイスラーム教徒や、アジアの仏教徒に多いに歓迎され、尊敬を受けた。
ダライラマを一番ありがたがっているのは、欧米のキリスト教徒だ。
台湾でも、大愛という仏教系の慈済が運営するテレビチャンネルがあるが、私は澄厳法師の特に台湾語による法話を好んで聞いている。知り合いの台湾人キリスト教徒も大愛をよく見ている。
台湾で聖書を好んで読むのは、仏教をまともに信仰している人たちだ。
また「宗派の違い」も、レバノンやシリアでマロン派やシリア正教、アルメニア正教、メルキトカトリックなど数ある宗派と接してきたものから見れば、どうでもいい問題だ。
まして、ダライラマはチベット仏教の指導者である。チベット仏教は仏教史、およびすべての哲学史の中で、きわめて特異というか深い意味を持っていることを、毎日新聞の記者とデスクは知らないのではないか?
日本では仏典は、母語に訳されていない。漢訳をそのまま読み下していて、民衆が聞いて理解できないものとなっている。しかも、漢訳には誤まりも多く、音訳で残しているものもある。
ところが、チベットでは違う。仏典はすべてチベット語に訳されている。いやチベット文語は仏典を翻訳するために作られていった言語でもあるのだ。
だから、仏教哲学や仏典の研究には、チベット語は必須である。
チベット語でどう訳されているかで、仏典の意味がわかるというものが多い。
そういう意味では、チベット仏教は、仏教の中で最も深遠で極致を示している。
それを代表する指導者が、宗教や宗派の別と関係があるわけがない。
私自身キリスト教徒で、宗教指導者としてのダライラマを尊敬している。ただしチベット解放運動という政治的な側面ではダライラマはナイーブで軟弱すぎてとうてい支持も尊敬もできないが、あくまでもチベット仏教の指導者として仏教への理解の深遠さという意味では、尊敬できる。
宗教や信仰とはそういうものだ。
毎日新聞の記者とデスクは、そういうものだということがわかっていない。
それは宗教や信仰というものを冒涜している。
キリスト教徒はダライラマを排斥するなどというのは、それこそ馬鹿げた無知蒙昧の唯物論者の妄言だ。毎日新聞はまともな信仰をバカにしているから、だから、倒産寸前になっているのではないか?!