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ある日カッパ姉ちゃんとカメラおじさんの家に一匹の子犬がやってきた。
日々のうつろいの発見と冒険を胸に生きていこう!

植木等と宵の口

2007年03月31日 | 写真コラム
植木等が亡くなった。
さみしい。
渥美清といい、いつまでも生きていてほしかった人だった。
植木やとクレージーのあの底抜けの明るさは、テレビの創成期
と映画の円熟期とちょうど重なった幸福な時代にデコボコ道を
照らすヘッドライトのようなものだった。
彼らは、今のテレビバラエティーのほぼ枠組をつくった。
そして古沢憲吾監督の「ニッポン無責任時代」の比類なきテンションの高さ。
東宝の当時のスタッフの話だと現場だとまじめに演じてる植木や
よりパンツ一枚で「今日も撮影快調! 回せ!」とカメラにまだフィルム゜
も入っていないのに叫ぶ監督の方が面白かったというほどの名物監督だった。
植木やさんもあの監督の「異常人を描いてるんだ」という迫力で
この喜劇の道、役者の道へ吹っ切れたと回顧していたのを聞いたことがある。
吹っ切れるってその人の人生でどれだけ重要か。
自分探しとか、自分の居場所なんて言ってるうちはまだダメなんだなと思う。
植木やさん、いまぼくたちの世界にあなたほどの人が見当たりません。
たけしが死んでこのさみしさがあるだろうか、
ダウンタウンが死んでこのさみしさはあるだろうか、
爆笑問題が死んでこのさみしさはあるだろうか。
今日気象庁は、「宵のくち」という言い方をやめて「夜のはじめ頃」と
するそうです。役所の考えることは、何と陳腐なことだろう。
「宵の口」にみんな学校から帰って、手を洗って父や母と夕食の食卓に
につき、テレビの植木やさんの出ている番組を見ることがどれだけ
たのしかったか。
とても文学的な響きの「宵の口」を捨て去ることで悲しくてもパアーと
行きましょうという植木やさんの明るさや暖かさに通じる残して
いかなければならないものを見失うような気がしてならない。
平成プチバブルなんてまだ宵の口。
だれもがまだまだ宵の口。お楽しみは、これから。
植木やさん、ありがとう。
そしておやすみなさい。


コメント
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