moving(連想記)

雑文(連想するものを記述してみた)

ニーチェその狂気という陥穽について

2005-05-24 | エッセー(雑文)

ショーペンハウアーのペシミズムといわれる哲学の特徴は、
世界は表象と意志によって成り立つというもの。
その意志とは、「盲目的に生きることを欲動してる」ということらしい。
その生の彩りが悲観的なので、ペシミズムといわれるようだ。

ショーペンハウアーの考えでは、結果的にペシミズムが、
「悪意」の心理を生むという。
①欲望が満たされるのは一瞬だから、満たされない欲求は苦悩を生む。
②強い生への意志の持ち主は、強い欲望を持つ。したがって苦悩が大きい。
③苦悩が大きい人は、他人の苦悩を見て、自分の心を慰めるようになる。
④そのうち他人の苦悩にしか、喜びを見出せなくなる。
(悪意が生じる心理的メカニズム)
⑤生の苦悩は、芸術(詩や音楽等)の鑑賞、創作活動により、救済することが出来る。

③④はジラール的な欲望は満たされない(他者の模倣だから)。
それゆえ、モデルとの緊張関係を解消するために、暴力、
排除の傾向を強めるという発想に似てるような・・・。

⑤は表象という世界の捉え方による発想じゃないだろうか。
表象という概念はわかり難いが、たぶん「物」をそれぞれ独立した存在として捉え、
要素間は計量可能な関係で、分類され秩序づけられうる。
分類「表」「図式」などのように表象=世界として解明できる。
・・・という発想があるんじゃないのだろうか。
だから、世界の模倣としての芸術活動には意味があると考えた。
芸術鑑賞は世界との一体感であり、生の苦悩から解放されるただ一つの、
人間の欲求活動と考えたのかもしれない。 


では、ニーチェの「力への意志」と、
ショーペンハウアーの「盲目的に生きようとする意志」との、
「差」とはなんだろう?
ショーペンハウアーに影響をうけたニーチェが、
ペシミズムからニヒリズムに転換し、
生の肯定の哲学を構築しようとしたらしいことまでは、
けっこう知られてることだが、ニーチェの人間観には、
表象という概念では、説明できない事態に対する問題意識が、
あったのかもしれない。
それは、マルクス的な「疎外」という概念にあたるような気がする。

「人間とは猿から超人に向かって張り渡された綱である。」とか、
人間の精神の三つの状態という分析、
①真理や欺瞞的道徳に疑問も無く拘束された状態。
②「~すべし」という重さの亡霊と(疎外)と戦う意志をもった状態。
③物事を純粋に楽しむ幼子のような(スターチャイルド)状態。

以上のような、ニーチェの総体的な人間観には、時代的変化に即応したものを
感じとることができる。それは、「欲望を達成するためには、労働し、
その得た富により欲求が満たされる。」という近代経済的な構造変化に、
ニーチェの思考は左右されたのではないか?

③は創造的芸術活動にあたる発想で、ショーペンハウアーの⑤と同じようなもので、
その継承発展させたものであるが、ニーチェの独創性が感じられない。
本来はそれはデリダ的なテクストの、「戯れ」として展開していく方向性を、
もったものではないかと推測する。
現にショーペンハウアーの一生は、主著の「補遺と補説」という著作活動で占められ、
まさにテクストに戯れていた感じである。

しかし、ニーチェは①②に拘泥し、テクストを楽しむという発想を飛び越え、
新しい知の体系を構築することではなく、現実の変化を求めたのではないだろうか?
それは自分自身をプログラム化(機械化)し、
「悲観的な生」を、すべてリセットするニヒリズムという発想転換を生み、
統一的な意味の存在を、前提とした世界の構築(操作)に向かった。
それゆえに、狂気という陥穽に沈んだのではないだろうか。
構造化すること自体が、意味の「ズレ」を産み、操作対象に還元されやすい。
創作者(生産者)自体も例外ではなく、創作メカニズムとして、
限りなくシミュラクルされていく。
そこに作者の絶対的意味付与性を、回復しようとすれば、
客観的に見れば、尊大であり、神であり、狂気に陥るのではないだろうか?
ニーチェが陥った狂気とは、ここに原因があったのではないかと推測してみた。