現代とは、権力が情報操作をシステム化し、
情報によって、個人の行動が管理される時代といえるだろう。
その個人を、労働管理下に置くことを容認された企業に、
社会的責任が、強く要請されるのは当然の結果だ。
企業の営利活動が公的性格が強く、社会的機能の一部を
担うものであるなら、その責任は一層重い。
しかし、情報を操作する側である企業は、その情報を隠蔽し、
企業にとって、都合の良いデーターに、改竄する悪循環を強くもつようになる。
それを暴く必要性が生じ、その機能をマス・メディアが独占することになる。
しかし、マス・メディアによる追求だけでは、改竄され、
隠蔽された真実を暴くことが出来ない。
(マス・メディアも巨大企業として変容し、悪循環に感染する。)
その弊害を除くためには、国家権力による企業への管理を、
認めなくてはならない、時代になるかもしれない。
国営事業として、インフラストラクチャを支えてきたものが、
営利目的なものに変容し、国際競争下に置かれた場合、
真っ先に被害をうけるのは、その労働者としての個人であり、
不正なリストラ、セクハラをはじめとし、企業の個人への疎外、
抑圧の問題は鬱積し、それが原因となって、
大事故が発生する可能性が高くなる。
さらに外国の企業が、今以上に参入し、競争過多になれば、
企業犯罪が蔓延化するのは、避けられないと思われる。
特に企業が、個人を害する行為を、犯罪として規制する法の整備は、
早急に求められなければならないだろう。
このような、状況下にある個人の精神は、疲弊してる事が多く、
それを鼓舞させる機能が、エンターティンメントに、求められているのかもしれない。
音楽におけるロックは、一つには既成の隠蔽されたものを、
暴露させ、その矛盾の体制を擬似的に破壊し、再生を促す。
カウンターカルチャーとして、音楽(ロック)が位置づくのも、若者が
既成の体制に、常に不満を感じてるからだ。
しかし、JPのロックは、商業的既成コードの拘束をうけ、
隠蔽されたものを、暴露するという機能を果たさず、
イノベーションの源泉ともならない。
この点が世界に飛び立てない、JPロックの限界なんだろうか。
知のファッションとして形骸化し、コマース論理に飲み込まれた
JPロックは、そのまま若者の精神を変容させ、情報管理下に、おくことになるだろう。
しかし、個人レベルではアーティスト自体も、シミュラークル(コピー)の消費者として位置づき、
二次的生産物としてのコピーの消費が、際限なく生まれ、
オリジナルの間とコピーの間の、価値的な区別が希薄なものとなり、
<生産、消費>者の区別が曖昧になって、イノベーションの源泉と、なりうるのかもしれない。
そこではじめて、疲弊した精神は再生し、結果、社会も十分な機能を、
発揮出来るようになるかもしれない。
<生産、消費>者の区別が、曖昧になる弊害もあるだろうから、
シミュラークルが、際限なく消費されるということもないだろうが・・・。