moving(連想記)

雑文(連想するものを記述してみた)

デスノートを見ながら・・・意識についての雑考

2006-10-28 | エッセー(雑文)
意識には、意識領域と無意識領域があるという仮説がある。
しかし、この仮説では無意識領域があまりにもニュートラルで
さまざまな空想的創作物語性にむすばれやすく、
たとえば、夢解釈などという物語性にズレこんでしまうのである。

意識は視野とか視覚の構造に近く、焦点化したものしか見えない
気づかないという特徴があるのであるが、
焦点化する機能に左右される意識のあり方は、
人間の動体認識の限界でも確認できる。
一秒間にわずかな変化が積み重なった短い動画では、
たぶん動体視野の能力が高いものには、比較的その変化を認識しやすい
とおもわれるが、見事なまでに、その変化が、意識されないのである。

絵でいえば「図と地」の構造、その反転形成の構造に無意識はあたる。
見えてはいるが、焦点化されていないために意識されない領野
それが、本来の意識野であり、ときにそれはプログラムにもなりえる。

見えないプログラムの上で、見える記号を使い、表現している。
このブログというシステムさえ、意識という構造として喩えることも
可能だろう。
このネットを成立させているプログラムは、「見えないことと、見えること」
の現象を操作し、書き込まれているのであるが、見えないことでプログラムは
通常走り、それが曝されてしまうと、加工され負荷が加えられ走らなくなる
可能性が高くなる。
そのため、プログラムをプロテクトするプログラムが過剰に積み重なる。
それは、人間社会のありさま、国家や企業の紛争と滑稽なまでに類似であり、
愚かさを露呈しているようだw。

プログラムと無意識領野の類似性は、
たぶん、これからの人間関係の抗争劇として、注目され、
互いの無意識領野に、先に記名性を与える象徴劇として展開され、
その現象を意識化し商品化し、消費を先導させるエリートを
生じさせていくのだろう。

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