moving(連想記)

雑文(連想するものを記述してみた)

コミックの実写化の落とし穴

2005-06-23 | エッセー(雑文)

「バットマン」「マスク」「スポーン」「メン・イン・ブラック」「X-メン」
「デアデビル」「ハルク」「スーパーマン」「ヘルボーイ」などのアメリカの
コミック・ヒーロー映画化の成功に影響され、日本でもコミックヒーローの実写化が、
昨年あたりも多く制作された。
原作はSF、ファンタジー系の物語が多く、CGを多用する
ニュータイプムービーという宣伝もあり、前評判を生んだ。
「キャシャーン」「デビルマン」「鉄人28号」
「 忍者ハットリくん THE MOVIE 」「けっこう仮面」「ゼブラーマン」など
もう既にDVD化してレンタルで見ることができるようだ。
(今年あたりは少女コミック原作「NANA」が見られるらしい。)


しかし、戦争によって荒廃した世界の表現をCGで多用した「キャシャーン」
「デビルマン」の評価が良くないようだ。
もちろん、原作の完成度が高く、そのイメージを損ねたことに、
対する反感もあるだろうが、コミックの実写化にはコピーであるということが、
シミュラクル(模造)する演劇、遊戯的出来事として、際限のないパロディである
という一種の不快さが伴うからではないだろうか。
特にヒーロー(超人)物語は、現実をパロディにして<排除>することを試みる。
「目標も意味もなく生きる。あるいは耐えられない人々、大衆」を排除することで、
排除される「超人」を浮き彫りにする構造が露呈する。
その超人が近い未来において、平凡な大衆を支配し君臨するという文脈を、
内在化していれば、そのシミュラクルにおいて、それを見るものは
演劇・遊戯的出来事の中で、本来自我に関係づけられる主人公や登場人物を喪失し、
自我は四散していく。その喪失感は本来的な、欲望の行き場をなくし、
少なかれ、個人を軽いダブルバインドの状況へおとし、判断行動を躊躇させ、
正常な行動、あるべき欲求を不安体なものにするという危険性をともなう。
意欲作である「原作からのズレ」を狙うものほど、この陥穽に落ち込む。
であるから、自己同一性を保障するものを明確に、示唆するエンターティメント性に、
重点をおいた作品に、評価で負けるのは当然といえば、当然なのである。
・・・と思ってみた。
  

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