金田一耕助「八つ墓村」1977年松竹制作 監督野村芳太郎(02時間31分)
出演 渥美清、山崎努、萩原健一、山本陽子、小川真由美
(この作品にはモデルになった実際の事件があったようだ「津山三十人殺害事件」)
見た人の感想では「恐ろしかった。」というものが多く、
ホラー色が強い作品という評価になっている。
1996年に市川崑監督 金田一耕助に豊川悦司で、東宝(02時間07分)で制作されてるが、
ホラー・ジャパネスクの頂点として、紹介されてるようだ。
1951年にも片岡千恵蔵が金田一耕助役を背広姿で演じていたという。
他の金田一耕助映画では中尾彬、石坂浩二、西田敏行、鹿賀丈史が金田一耕助を演じてる。
渥美清が演じた金田一耕助のイメージは、原作やそれまでの映画に、登場した金田一耕助の
イメージと異なる。ヨレヨレの和服に長髪で髪をかきむしり、フケを撒き散らかし、
逆立ちでアイデアを捻り出す。という定番化した特に石坂浩二以降のイメージを
「静かにズラしている。」
金田一の設定には留学経験者のインテリという部分がある。
それは近代的パラダイムの持ち主であり、知識階層の社会的責任という側面を、
一つのスタイルで表してはいるが、原作でも役場の職員とか、書生程度にしか
見えないという、通常のインテリ像を逆転させた原作のイメージにそった石坂金田一を、
さらに「ズラして」見せた渥美金田一は、正面から社会的責任を、引き受けようとする
インテリ知識階層を、復元しようと試みてるかのようだ。
石坂は芸能界で、理想的知識人としてのスタイルを表現しているが、
渥美は「寅さん」役者に終始し、素顔は徹底して隠していた。
見かけと、その裏、虚像と実像の「差」に、一番敏感だった役者といえるだろう。
その渥美が演じた金田一は、推理分析する学者のように淡々と事件を語る。
近代的パラダイムにそうかたちで、事件の背後にあるものを浮かび上がらせようとする。
石坂的知識人=道化者=金田一という結びつきは、道化者トリックスターを強調し、
社会の二面性を露呈させ、異質なものを再生産のために取込む合理性を主張し、
資本のグローバリーゼーションに行きつき止まる。
(結果、知識層は権力の傀儡として呑みこまれる。)
「寅さん」役者渥美=道化者=金田一では、「ズレ」がおこる。
「寅さん」=道化者と道化者=金田一の衝突、二重化がおこり、
道化者=金田一は「ズラ」さられ、考古学者的知識人=金田一というイメージに
「ズラ」された時、近代的パラダイムの意味が変化する。
それは「因果応報」という観念を掘り起こし、事件の真相のさらに地層にあるものを、
掘り起こそうとする。野村版「八つ墓村」が祟りという概念や怨念の実在を、
説く映画独自のストーリー展開をしているといわれるのも、
渥美「寅さん」⇒金田一耕助⇒考古学者的知識人という「ズレ」の構造が、
合理的精神を否定するかのような、非合理性であったり、人間の感情優先の行動の
肯定というような脈絡を復元し、知識階層のルサンチマンの精神を、
回復させているからではないだろうか。
寅さんには「てめえ、さしずめインテリだな」といって感情を表に出せず、
理屈倒れになるインテリを嫌うシーンがあるが、逆にいえば感情表現がうまく、
理路整然としていれば良いのであって、それは現代の市民としてのコモンセンスの
問題でもあるのだから。・・・という読み方をしてみた。
(知識人をモデルとする市民のコモンセンスでいえば、サルトル的スタイルから
フーコー的スタイルへと「ズレ」たのかもしれない。)