世界はキラキラおもちゃ箱・2

わたしはてんこ。少々自閉傾向のある詩人です。わたしの仕事は、神様が世界中に隠した、キラキラおもちゃを探すこと。

すごいな

2007-05-21 15:53:10 | 珈琲の海
うちの本棚には、論語や聖書や仏典があります。若いころ、自らの存在意義や人生を見出すために、人が一度や二度は触れてしまいたくなるもの。

この中では、論語が一番易しいです。人として実生活の中で実行しやすい教えが書いてある。
「過ちて改めざる。これを過ちという」
わかりやすくて、はいりやすい。まさにそのとおりだと思う。

そのつぎは聖書かな。
「野の花を見なさい。働きもせず、紡ぎもしない。しかし栄華を極めたソロモンでさえ、この花の一つほどにも着飾ってはいなかった。」
これは、みんな神様に愛されているよっていう意味のことば。やさしさが身にしみてくる。

仏典はどうでしょう。手元にあるのはダンマパダ、ウダーナヴァルガ。これは難しい。数多くの語句があるのですが、一般に、人間として実行に移すのは難しいのではないかと思うことが多い。
「愛するものから憂いが生じ、愛するものから恐れが生じる。愛するものから離れたならば憂いは存在しない。どうして恐れることがあろうか」(ウダーナヴァルガ)
要するに、愛するものがあるから憂いや恐れがある。だから愛するものから離れたらそんな苦しみは味わわずにすむ。目覚めた人は愛するものから離れていく。という意味でしょう。要するに、愛してはならないってこと? でも、これは、人間にはとても難しい。実際わたしは、子供を捨てて出家するなんてとってもできない。子供がいれば憂いも恐れもあるけれど、離したくない。普通の人間ならそう思う。

でも、えらい釈尊はそう言ったという。悟りの人になるには、こんな苦しい思いをしなければならないのか。それはとても常人には無理だと思う。
仏教の教えをすべて実行しようとすれば、人生は苦しいことばっかりになってしまう。

でも仏教ではこういうことも言われている。般若心経や浄土教などでは、この世は苦界だという。美しい浄土、彼岸の世界はすばらしい。あっちが本当なんだよっていう。おもしろいね。この世界はみんな幻なんだよ、て、仏典が教えている。そして、この教えだって幻なんだよ。ほんとはね、嘘なんだよ。「真如の教えなり」。ほんとみたいに見えるだろ。実は嘘なんだ。あっちがほんとなんだ。

苦しくはないんだよ。すばらしいんだよ。浄土は真実の岸なのだ。こちらの岸は嘘なんだよ。
あふれるほどの仏典には、たぶん後世の捏造が山ほどあるんじゃないかなって、わたしは推測しています。3000年も人の手を触れてきたものですから、そりゃ、悪い人が改ざんするチャンスはいくらでもあったでしょう。釈尊が言ったなんていって、アホなことを言った人はいっぱいいるはず。だから、仏典は読むとすごく苦しい。

どう考えたって、こんなの自分にはできないってことが、大方なんです。
でもね、「真如の教えなり」で、みんなひっくり返るの。こんなの全部嘘だよ。ほんとはね、反対なんだよ。愛するものは、大切にしてあげなさい。怖がる必要はないよ。憂う必要はないよ。みんな愛なんだよ。

おもしろいね。あほみたいでしょ。だって、「この世は幻だ、みんな嘘なんだよ」って仏典は言ってる。ということは、その仏典だって嘘になるでしょ。ということは、「この世界は幻じゃない。真実なんだよ」ってことでしょ。これだと、孔子やジーザスとほぼ同じことを言ってることになる。愛なんだよ。すべては愛なんだよって。

仏教はすごいな。
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たすけてくれ

2007-05-20 11:13:02 | 珈琲の海
この世界は、かなり、まちがいだらけという世界です。
にんげんはみな、自分はかなり賢いと思っていますが、それは、苦しいほど甘いこと。おそろしい間違いをして、平気でいることがよくあります。

世界の秘密は、薫り高い美しい書物の中に、きめ細やかで美しい秘密の花文字で描かれている。それは美しく優しく、気高いものだ。手にとって開くことさえ、何十年と学ばねばできないほどだ。だけど人間はそれを、安っぽいペーパーバック同様に、古本屋に売っている。その日のお茶代をうかすために。

にんげんは、世界の秘密について、赤ん坊ほどにも知らない。知らずにおもしろいように苦しいことをやって、自ら奈落への階段をのぼっている。そのままいけばどうなるかも、うすうす知っている。でも、見たくない。認めたくない。目も耳もふさいで、せつな的な感覚の、快楽にひどく似た激痛に酔っている。これが癒しと言って、毒の粒を飲む。つらいからいいんだって言って、どんなことでもやってしまう。そして、じぶんじしんをこわしていく。

人間がこわれていく。

い た い の は  わたしが それを やって しまった ことだ

あふれるほどの後悔が、神への憎悪に変わる。世界を滅ぼしてやる。つらい。くるしい。おれはいやだ。はてしなくつづく このげきつう。

たすけてくれ。

人間は、なにもわからない、幼稚な阿呆の中に逃げる。あ ま り に も くるしい。な に を して るのか なんて わからない ほうが いい。

たすけてくれ。
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こないほうがいい

2007-05-19 08:30:12 | 珈琲の海
人間が苦手なので、植物とばかり話してきました。友達はあまりいなかったな。植物とは、かなり気が合いました。どこか共通するところがあった。

木や花は、本当はとても大切なことをしているのに、人間はだれも見向きをしない。きれいなだけのバカだと思ってる。
木はみんな、人間は辛いな、苦しいなって感じてる。人間は、わからないんだ。大切なことが、わからないんだ。そして、自分はみんなわかると思っている。

木や花に心を開いて生きていると、山も海も空も、生きているってことがわかってきます。山を見ていると、山がじっとこっちを見ているってわかる。山はみんな見ている。そしてわかっている。何かを言っている。これは別に特別なことじゃない。今は、人間はみんなこれがわからなくなっているだけ。

先日、ある観光地の山の写真を見る機会がありました。そこは天然の森に触れられることで有名な観光地なんですけど、そこの山が、「人間は来てはいけない」と言っているのが、わかりました。
写真の中の木々が言っていた。「人間が苦しい」「人間のやっていることが苦しい」「来ないでくれ」

人間は、木は何もわからないと思っている。あるいは、木は何でも受け入れてくれると思っている。それは要するに、何でも木に押し付けてきたってことなんです。

木にも言いたいことがある。人間は、あらゆることをしているから。

美しい敬愛の魂が、美しいものを本当に美しいと感じて、その真実の意味がわかるものならいい。やっていいこととわるいことのちがいもわからないうちは、ここに来ないほうがいい。そういうところが地球上にはある。

人間はそんなこともしらないのに。
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馬鹿だから

2007-05-18 10:26:56 | 珈琲の海
半ひきこもり状態になってるのには、まあいろいろと事情があるんですが。
正直、これはひどいなあってことを、何度か経験しました。この世界は、まるで空気がざらついた紙やすりのようなんです。そこにいるだけでぼろぼろになる。

絶望的だ、なんて頭を抱えることは何度もあった。それでも前に進んできた。無理にでも希望を見出した。200パーセント無理、なことでも、それを考えないようにしてきた。自分は馬鹿だからいいや、でやってきてしまった。

とにかく、今の段階で結論は出さないことだ。視点をいつも、ほんの少し未来にずらす。明日は何かが変わっているかもしれない。だから今がどんなに真っ暗闇でも、決め付けてしまわないことだ。常にそうしていれば、希望が生きていける場所を確保できる。それがどんなに小さな場所でも。

周りの100パーセントがつらいことばかりで、絶望の壁が苦しいほど押しつぶそうとしてくるのなら、自分で希望を生み出すことだ。自分にはそれができる。なぜなら人間はみな、創造主の子供だから。いつでも何かを生み出すことができる。簡単なことだ。自分がやればいい。ただそれだけなんだ。

わたしは馬鹿だから、これからもずっとやるよ。

それが、どうしようもない、わたしってこと。
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雨の後

2007-05-17 11:03:39 | 珈琲の海
夕べは強い雨風がありました。パソコンをいじりながら、窓一枚向こうの風雨の音を聞いていました。小さな家に守られて、わたしはゆっくりと風の音を聞いている。世界中で風が吹き荒れても、小さな繭をかぶって、わたしはひとり静かに、ここでことばをいじっている。

目をつぶると、緑に囲まれた小さくて平らな場所があって、そこはいつも木漏れ日がふりそそいでいる。時々とおくから何かが聞こえてくる。聞き覚えのある何かの音楽のようだけど、それが何か思い出す前に、風がまどろみをうながす。

ここには、神様とわたししかいない。だからわたしはわたしでいられる。神様は、わたしのすべてを知ってるから。いやなことなんて、なにもしないから。わたしのやっていることを、いつも笑ってみてくれているから。

外は風が強いんだね。出ると濡れるね。寒いだろう。痛いだろう。

ここにいていいよ。しばらくは。ふたりでいよう。やりたいことをやろう。神様は笑ってくれる。もう少し。

たくさんの傷の痛みが、もう少し眠ってくれるまで。ごらん。

雨の後の花は、みんなやさしい。
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ずっとそこに

2007-05-16 15:05:15 | 珈琲の海
今日は、小学校でお話し会がありました。所属している読み聞かせボランティアのグループで、小学校の子供たちに絵本を読み聞かせるのです。

半ひきこもり状態のわたしにとって、外に出て人と触れられる数少ない機会です。風邪のために、しゃべると咳が出るので、なかなか話はできないのですけど、子供たちの声や、同じボランティアグループの友達の話を聞いているだけでも、なんだか楽しいです。

今年度から新しく入ってくれたメンバーさんが、手作りお菓子を持ってきてくれて、そのレシピを交換してるとこなんか、なんだかうれしいな。女の人が幸せそうなのは、とても美しいと思います。

前回のお話し会のときは、校庭の藤棚の藤が満開だったのですが、今日はもう緑になっていました。体育館の影に咲いているタンポポも、もうほとんど綿毛です。梅の木には緑の実が生り、くすのきは明るい若緑を風に揺らしている。曇り空で風が少し強く、初夏にしては肌寒い日です。

お話し会からの帰り、体育館の前のくすのきが、挨拶してくれました。きっとこの木も、この小学校を守ってくれているんでしょう。子供たちはかわいい。

かわいい子には、何をしてあげようって、木はいつも考えてる。何でもしてあげるよ。あいしてるよ。あいしてるから。

木はずっとそこにいるんだよ。
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幻の魔王

2007-05-15 10:00:48 | 珈琲の海
「普通」ていうことばに、苦しめられたことのない人は今、この世界にはいないと思います。わたしも子供のころから、よく言われてきました。

「おまえは普通じゃないよ。普通になりなさい」

で、では普通って何?てたずねると、その人は怒る。怒るってわかってるから、たいていの人はもういわれたまま、だまってしまうんですけどね。ああ、この人は苦しいんだな、て感じで。

「おまえは普通じゃない」ていうのは要するに、「おまえは俺とは違うからきらいだ」ていう意味の言葉です。人間はみんな違うから、そんなことは当たり前なんですけど、自分がいやで、自分がどこにもないって感じてる人は、ただ他人が自分とは違うってだけで、いやだと感じてしまう。他人がいることが苦しい。だからありとあらゆる他人を責めてしまう。

「普通になれ」って言われたって、なれるわけがないんです。それは「お前は俺じゃないからきらいだ、俺になれ」てことですから。すなわち、「おまえのほんとの自分を捨てて、みんなおれの言うことを聞け」ていう意味の言葉ですから。これは、本当に苦しい言葉なんです。おまえの自分自身を、俺によこせっていう意味だからです。魂をよこせっていってるのと同じです。

「普通」ていうことばは、本来そんな意味はなかった。けれど、自分を見失って生きることが苦しくなりすぎた人間が、他人を攻撃して自分の虚しさを少しでも癒すために、あらゆるものをせめてもいいと許可を与える幻の魔王のようにしてしまった。

「普通」なんてものはない。それは幻なのです。金子みすずの言うとおり、人間は「みんなちがって、みんないい」。それぞれがそれぞれであることがすばらしい。
今の自分が、「当たり前に」できることが、すばらしいんです。

本当に、人間はすばらしい。普通に、当たり前が、すばらしいんです。
それがほんとの、「ふつう」です。
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2007-05-14 18:48:16 | 珈琲の海
またブログを開設しました。前のが終わって、しばらくやめていたのですけど、撮った写真はたまってくるし、なんだかさみしいし。
今度もまたよろしくお願いします。

相変わらずわたしは、半ひきこもり状態です。ほとんど毎日、デジカメ片手に、近所を散歩して、ミクロな草花や虫の写真ばかり撮ってます。時々詩を書いたり、飽きずに空を眺めていたり。

自分の心とばかり話している。

まだ少し、脱いだ繭に片足をつっこんだまま、外に出てないって感じですね。

前のブログを読み返すのが、最近少し苦しいのです。あのころは、飽きるほど、苦しいことがあって、それを夢中で乗り越えようと、もがいてばかりでした。自分が苦しすぎるということにも気づいていなかった。ほんとのことをいうと、あのころのわたしは、少し、壊れていました。この世界で生きるのが、苦しすぎるほどに苦しかったのです。

今は、ほんとうの自分がわかって、澄んだ水のように胸が気持ちいい。

これからまた、新しい自分を表現していきます。

写真も絵も、昔とはだいぶ違ってきてると思う。また、おもしろいことをたくさんやろう。

そのうち、ひきこもりの繭から足を抜いて、ちょっと外に出てみよう。
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