何だかタイトルとちょっと違うように思えますが、冒頭の絵はジョルジョーネの「読書する聖母」です。ティツィアーノの兄弟子でもあるジョルジョーネの絵としては、「眠れるヴィーナス」が有名ですけれども、あの絵は、どことなく雰囲気がこの絵と違いますね。それはジョルジョーネの死後、未完成のまま残されたそのヴィーナスの絵を、ティツィアーノが完成させたからなのですが。
そのティツィアーノの手が入っていないこの絵を見ると、ジョルジョーネがレオナルドの影響を受けていたということが、わかります。画面に漂っている静謐な雰囲気は、レオナルドに学んだもの。とても美しい。けれどもわたしは、この絵を見ると、人間、そんなにいい子にならなくていいよ、もっとやんちゃをしていいよ、と言いたくなる。
レオナルド・ダ・ヴィンチにも、弟子はいました。彼らはレオナルドの技法を学んでそれぞれに絵を描いているんですけれど、どの弟子の絵も、レオナルドの真似から脱していない。だから今でも、弟子の描いた絵が、レオナルドの作品と間違えられていたりするんですけど。
下の絵はレオナルドの弟子だったベルナルディーノ・ルイーニの、「女性の肖像」という
絵です。
かなり個性が出てると思いますが、やはりどことなくレオナルドのコピーという感じから脱することができていません。微笑みの仕方も、まなざしも、レオナルドの強烈な香りがする。何かに縛られているかのようだ。
西洋絵画史からの観点でも、レオナルドの系譜は、彼の弟子あたりで途切れています。レオナルドの技法では、レオナルドを超えることができない。人間の生き生きした才能が、レオナルドの世界ではまだ生きることが難しいという気がする。
ところが、ティツィアーノの系譜からは、かなり面白い才能が生まれてくる。ベラスケス、ゴヤ、ルーベンス、ヴァン・ダイク、最もおもしろいのは、マネ。
どうしてかというと、人間の人間的な個性は、ティツィアーノのやり方での方が、生き生きと自分を生かせる大きな庭が見えるのです。人間は、レオナルドのように、いい子的な「美しい」という描き方よりも、ティツィアーノ的な、「上手い」という描き方の方が、向いている。
つまり、人間の持っている、技術の巧みさ、絶妙に上手いと言うところを目指せる器用さ、ということを生かせる世界が、ティツィアーノの描いた絵の中にあるのです。
つまりは、ティツィアーノは、人間の好きな、すごい技、というものを持っている。それがすてきなところ。ティツイアーノの世界で、人間は本来持っている面白い個性を生かせる。そこから、人間は人間としての、自分たちの個性を見つけることができる。
ティツィアーノ・ヴェチェリオは、人間に、人間の持つ個性と力がどんなものなのかを、そしてその自分の個性がみずみずしく生きていける世界を、教えてくれるのです。